日本基督教団 豊橋教会集会案内

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日本基督教団豊橋教会ホームページにようこそおいで下さいました。
豊橋教会は1885年10月3日に創立された日本メソヂスト教会の流れをくむ歴史的な教会です。
全国約1700箇所に教会がある日本基督教団に属しているプロテスタント教会です。
どなたでもご自由にご参加いただけます。 集会は以下のようなものがありますので

お気軽にお問い合わせ下さい。
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 ===集  会  案  内===
☆主日礼拝:毎日曜日10時30分より
☆こどもチャーチ: 毎日曜日9時00分より
(子供たちのための礼拝です)
☆定例祈祷会:毎木曜日13時30分より
☆キリスト教初歩の学び:あなたのご都合に合わせます
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※こどもチャーチは9月から再開します。


住所:〒440‐0806
愛知県豊橋市八町通4-67
電話・FAX:0532-52-0756
牧師:前田 和之

※豊橋駅より市電、豊橋公園前駅下車,進行方向(ガソリンスタンドと反対方向)に歩いていただき徒歩1分です。

車でお越しの方へ
(浜松方面から)国道1号線を岡崎方面に進み、“福祉センター南”交差点を過ぎて長谷川歯科の隣。
(岡崎方面から)国道1号線を浜松方面に進み“八町通三丁目”交差点を左折。最初の信号を右折し、最初のT字路を右折。次に“福祉センター南”交差点を右折し、長谷川歯科の隣です。
※駐車場は別途お問い合わせ下さい。

2020年8月 9日 (日)

8月9日主日礼拝音声データー

「キリストによる新しい契約」 コリントの信徒への手紙11章23~29節

8月9日主日礼拝説教の音声データーです。イエス様が定めて下さった新しい救いの約束に与って参りましょう。

2020年8月 7日 (金)

8月2日主日礼拝説教要旨

「キリストによる救いの確信」 ローマの信徒への手紙14章10~23節

 本日説教されるべきみ言葉であるローマの信徒への手紙の後半では、私たち教会に属している者がイエス様に従っていく上で一体何を大切にしなければならないかということが示されています。そして特に本日のみ言葉においては、その当時まさにローマの教会で実際に困っている出来事について、パウロが愛をもってそのことに助言し、そしてその背後にはパウロのローマの教会が良くなるようにという祈りがあると思います。その祈りによって書かれている言葉ということが示されているのです。

 それは具体的に何かといいますと食べ物に関する考え方の違いということです。本日のみ言葉の少し前のところ、ローマの信徒への手紙14章2~3節を見ていただきますとそこでは「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」つまりここで示されていることは、まさにローマの教会の中に争いがあって、互いに相手の考え方を厳しく批判しあっていたということなのです。何を食べても良いという人びとは、まさに食事についての自由派の人びとであり、どんなものでも食べて良いと考えていたということです。そして偶像に備えられた肉についても食べていたわけです。それはかつてペトロが使徒言行録で言っているように食べ物によって人は汚れることはないのであって、たとえ偶像に備えられた肉であっても神様が清くされた食べ物を感謝して食べるという考え方でした。しかし、もう一方で野菜しかたべないとここで言われている人びとは本当に真面目な人びとであって、たとえ食べ物で汚れないとしても偶像に備えられた肉を食べることはまさに偶像礼拝をすることであって、それはイエス様を救い主とし、神さまを信じて従って生きることを決心した者にとっては、とても受け入れることはできないと考えたのでした。

 パウロはここでどちらが正しいということを言っているのではありません。どちらもそれぞれ自分の正義というか、正しさがあるわけです。確かに正しさはあります。しかし、パウロはこの自由派の人びとにも、野菜しか食べない人びとにも考えてほしいことがあると本日のみ言葉では語っているのです。それはローマの信徒への手紙14章15節でこのようなみ言葉が示されていくからです。そこをみていただきますと「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」ここではっきりとその問題についてパウロは指摘しているということなのです。つまり人間的な正しさはあっても、愛がないということなのです。神さまの愛、イエス様の愛がないのです。イエス様私たちに示しているのは、神さまの愛であって、互いに裁きあうことではないのです。パウロがここでまさに何を食べても良いと考える自由派の人びとにも、野菜しか食べない人びとにもそのの両方に人びと訴えていること、それは「キリストが代わりに死んで下さったほどの人をあなたは食べ物のことで滅ぼさないでください」ということなのです、そして16節ではさらにこのような言葉が示されていまして、「ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」最初み言葉を示されるときには、なんのことだかわからないかもしれません。善いことがそしりの種になるなんてことはありえないと私たちは考えることです。つまり善いことが批判されるようなことになる、悪いことになるということなんかあるのかと私たちは思うでしょう。そこに私たちの思い込みの激しさというか、間違った誤解があり、それは私たちが無意識にしてしまうがために気をつけなければならないことなのです。なぜならそれは本当にともすると人を滅ぼしてしまうようなものになりかねないからです。

 私たちの信仰の一致、そしてその信仰をしっかりと成長させていくには、まさに神さまの、イエス様の愛による一致ということが必要です。そして17節では3つのことが示されていましてそこでは「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と示されています。ここで言われている「飲み食い」とはローマの教会がまさに飲み食いのことで争っている現状ということを示しています。しかし、それは本来信仰とは関係がない、人間的な正義の主張ということになるのではないでしょうか。パウロはそのようなことによって争うのではなくて、本当に聖霊を求めていくこと、神様に、イエス様に本当に忠実に信じて従う心を与えて下さるその聖霊を求めていくことこそ大切なことなのだとここで示しているのです。そして第一にその聖霊によって与えられる義、それは人間的な正しさということではなく、神様が私たちに示して下さるその義を求めていくのです。この神様が与えて下さる義は神さまとの正しい関係を回復して下さるものであり、それは人と人との正しい関係を回復させていくものです。この義と平和、まさにキリストによる平和のことですけれども、ここでも本当にあなたがたに平和があるようにというイエス様のその愛、み心が示されていきます。イエス様はまさに私たちに平和があるように、その十字架で私たちの罪を滅ぼし、救ってくださったのです。教会の信仰をしっかりと確立していくこと、そして私たちの信仰の成長はまさにこのキリストの平和があるからこそではないでしょうか、心穏やかでないのに聖書のみ言葉がわかるということはありえないのです。心が穏やかであるからこそ、キリストの平和があるからこそ、キリストの救いの出来事がわかっていくのではないでしょうか。そして喜びです。喜びがなければ、単なる義務であり、いやいやながらということなのです。そのような奉仕を神さまが喜ばれるでしょうか。私たちが教会生活を喜びを持って歩んでいるかどうかということはとても大切なことなおです。そしてそれは人間的な喜び、楽しさということではありません。何よりも聖霊による喜びであり、神さまが私たちの教会生活を喜んでいるかどうかということです。しっかりとした神さまへの信仰による応答ということがあるからこその喜びなのです。そのようなものを大切にしていくこと、それが「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」ということではないでしょうか。

 ローマの信徒への手紙14章19節そこでは「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」と示されているのです。本当に私たちが平和であること、互いに互いを尊重し、信仰を高めあっていくこと、向上することを求めていくことこそが、神さまのみ心にかなったことであり、イエス様の救いの出来事、「キリストによる救いの確信」がそこにあるのだということではないでしょうか。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」私たちは本当にお互いに聖霊によって、神様によって与えられていく正しさ、神さまとの関係の回復、人間関係の回復を求めていきたいのです。何よりもそれぞれがキリストによって平和、平安の中に生きることができるように求めてまいりたいのです。そして何よりも信仰の喜びをもって、これからも神さまにそして救い主イエス・キリストに従って、教会生活、信仰生活を歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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2020年8月 3日 (月)

8月2日主日礼拝説教音声データー

「キリストによる救いの確信」 ローマの信徒への手紙14章10~23節

8月2日の主日礼拝説教の音声データーです。どのようなときも神さまにあって愛、平和、喜びをいただいて歩んでいきましょう。

2020年7月29日 (水)

7月26日主日礼拝説教要旨

「恐れを取り去るキリスト」 ヨハネによる福音書6章16~21節

 今日の聖書のみ言葉には「嵐を静められるキリスト」のお姿が示されています。聖書の舞台となっているガリラヤ湖は、時々このような突風とも思われるような嵐に巻き込まれるのです。それは弟子たちが乗っていた船も決して無関係ではありませんでした。18節を見ていただきますとそこでは「 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。」とすでに船は、19節によりますと陸から25~30スタディオンほど離れていました。1スタディオンは185メートルですから私たちのわかる距離に直しますと、約5キロメートルほど離れたところまで船は進んでいますから、当然そのような突風によって船が沈んでしまうということはあり得るのです。
 
ヨハネによる福音書に示されている、この出来事は、マタイによる福音書にも、あるいはマルコによる福音書に同じ出来事が示されています。そしてこのような湖の上の嵐とは、しばしば私たちの人生を歩む上で突然に吹いてくる嵐、試練や困難、苦しみや悲しみを現すものだとも考えられるのです、その嵐の中で、この船の中にはイエス様はおられなかったのです。一人その山に行かれて祈っておられたのです。肝心なときにイエス様がおられなかったとヨハネによる福音書ではそのように示されています、助けてほしい時にイエス様がおられないなんて、弟子たちはそう思ったでしょう。私たちの信仰とは、イエス様に対する信頼とはそのように嵐が吹く時にゆらぎます。しかし、そのようなイエス様に対する私たちの不信頼というのは、大きな誤解を伴うものであることが本日のみ言葉には示されているのです。そのような嵐の中で、本当に私たちに吹き荒れる嵐を静めて下さるお方、それがイエス様であり、救い主としてのキリストなのです。そして私たちが船の中におられないと思っているキリストは、すでに私たちの嵐と戦ってくださっているということなのです。私たちの人生の試練や困難、苦しみや悲しみと、戦っていて下さるそれが救い主としてのイエス様なのではないでしょうか。

 話は変わりますが、日本基督教団 元桑名教会の牧師である原崎 清先生の奥様であった原崎百子(ももこ)さんが書かれた日記が元になっている私記である「わが涙よ、わが歌となれ」という本があります。百子さんは、43歳の若さで、肺がんのため神様のもとに召された本当に壮絶な人生、まさに肺がんという嵐の中でそのことと戦われ、神様の御国に召されたクリスチャンです。その百子さんがその本の中で1つの詩を残されているのです。引用しますと「わたしが 共にいる 治らなくても よいではないか/わたしが 共にいる 長患いでも よいではないか/わたしが 共にいる 何も出来なくても よいではないか/わたしが 共にいる それで よいではないか/或る晩 キリストが そう言って下さった。」ここで何度も「わたしが共にいる」と言われているわたしとはキリストのことです。キリストが共にいて下さるそのときに、肺がんがすすんでいく、治らないという試練の中にあっても、本当にその中で人間的にはすべての手段を尽くし、どんな治療をしても治らないという本当にそこでは嵐に飲み込まれてしまうようなそのような状況で、キリストは共にいて下さった、ある晩、悩みの中で祈る時にイエス様がそのように仰って下さったということなのです。

 弟子たちが船におられない、共にいてくださらないと思っていたキリストは、すでに湖の上で私たちに吹き荒れる嵐を静めて下さったそしてその湖の上を歩いておられたということなのです。そして20節でこのように仰っています。「イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」私たちは恐れます。様々な恐れが私たちの人生に起こります。湖に吹き荒れる嵐のように私たちの人生には恐れが、不安が、試練や困難が訪れます。そのようなときに、本当にイエス様が愛をもって、神様の命、永遠の命に与ることができる希望を示し、「わたしだ。恐ることはない」と仰ってくださっているということなのです。

 イエス様を救い主と告白し、イエス様の導きを祈るからこそ私たちは前に進むことができ、目標を誤ることなく、神様の救いを伝えていくことができるのです。本日の御言葉の最後ヨハネによる福音書6章21節でははっきりとこのように示されています。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」弟子たちがイエス様を本当にその船の主人として迎え入れようとする時に、船は目的地に着くのです。私たちが人生において、あるいはこの教会の歩みにおいて、船を漕ぎ出して目標を目指す時、本当にその目的地に着くことができるのか不安になります。イエス様の仰っている使命、それぞれが人生において果たすべき課題を果たすことができるのか恐れが襲います。しかし、そのときにイエス様は恐ることがないと私たちを励まし、勇気を下さり、そして恐れを取り去って下さるのです。嵐を静めてくださるのです。私たちの救い主であるイエス・キリストが共にいて私たちの歩みを導いてくださるのです。そのことを覚えて、本当に今、様々不安や困難、苦しみや悲しみ、嵐の只中にあるときイエス様が共にいて下さることのその平和、平安を覚えたいのです。そして今は嵐の中にいるのではなく、その船を漕ぎ出そうとしているそのときにもイエス様がきっと私たちを目標まで導いて下さるそのことを信じて、私たちはイエス様に、神様に委ねられているそれぞれの使命を果たしていきたいのです。

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2020年7月26日 (日)

7月26日主日礼拝音声データー

「恐れを取り去るキリスト」 ヨハネによる福音書6章16~21節

7月26日の主日礼拝音声データーです。キリストによる平和の中、恐れないで歩んでいきましょう。

2020年7月24日 (金)

7月19日主日礼拝説教要旨

「キリストの命に与る希望」 ヨハネによる福音書5章19~38節

 本日のみ言葉、ヨハネによる福音書5章19~38節、その表題には「御子の権威」ということが示されていますが、そもそもここで言われているのは、主イエス・キリストが示された復活の命に与ることはどういうことであるかということです。なかなか、今日のみ言葉は難しい言葉が示されていて、難しいなと思われる方がおられるかもしれません。しかし、ヨハネによる福音書5章24節を見ていただきますとまさにそこでは「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」というみ言葉が示されています。イエス様の証言、そのみ言葉を聞いて、本当に神様を信じ、イエス様の救いに与って、イエス様の復活の命に与ることは、そこで罪が裁かれることがなく、すでにこの世の人生を歩んでいるとしても、本当にそこで滅びに至るような人生を歩むのではなくて、つまり最後の裁きとして、私たちには肉体の死ということは訪れますけれども、しかし、そこでまさにイエス様によって、イエス様を救い主として信じて生きてくことは、イエス様の示された復活の命に与って、永遠の命を頂いて神様のみもとで安らぐことができるのだということなのです。

 けれども、本当にこのキリストの命に与るこの希望を知っている人というのは、私たちの日本のこの社会では少ないのです。ヨハネによる福音書5章38節、本日のみ言葉の最後には、「また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」と「父がお遣わしになった者」すなわちイエス様のことを「あなたたちは信じない」とイエス様のことをなかなか人は救い主として信じないことがはっきりとここでは示されています。けれども、本日のみ言葉、ヨハネによる福音書5章36節では、「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」とはっきりとここでは、まさにどんなに人間的には、神様に仕え、神様を証ししている、「悔い改めよ」つまり神様にその向きを変えて、神様を第一として歩みなさい、神様を本当に自分の主人として受け入れ、神様に立ち帰りなさいと訴えた洗礼者ヨハネがいるわけです。その洗礼者ヨハネにまさるキリストの証し、証言というものがあるということなのです。それはイエス様が行っている業、イエス様の教えというのは、単にみ言葉ということだけではありません。イエス様がなされた奇跡、癒やしの数々もイエス様が救い主であるということの証言なのです。19節では「そこで」という言葉が示されていますけれども、これはその前のところ、ヨハネによる福音書5章1~18節で、ベトザタの池のところで病人をイエス様が癒やされたその奇跡が示されているのです。このような奇跡を行われたあと、イエス様はまさにご自分は一体誰であるかということを証言されている。それが本日のみ言葉であるのです。

 話はここで少し変わりますが、私たち人間は本当に神様を知らずに生きている時に、あるいは私たちでも神様の恵みの中で生かされていない時、神様に背を向けて生きてしまう時にそこで虚しさ、空虚感ということを感じるのではないでしょうか。このような空虚さの中に生きている、虚しさを抱えて生きている、生きる希望がないというのは、わたしたち現代人の大きな特徴です。「空虚さ」とは、まさに中身のない空っぽな状態のことであり、自分は無価値であると思うことです。この空虚さというのは、様々なときに感じるものであり、孤独なときに感じるむなしさ。あるいは自分より充実している他の人を見る時に感じるむなしさ。あるいは、物事がうまくいかないときに感じるむなしさということがあります。あるいは、自分よりも優先すべきものを失った時に感じるむなしさということもあります。自分より優先すべき仕事ですとか、あるいは自分よりも子どもや家庭を優先して頑張ってきた毎日から突然解放されてしまうとむなしさを覚えるということがあるわけです。このようなときに、心理学者であり、明治大学の文学部教授である諸富祥彦という人が、まさにこの人は、「夜と霧」という本を記した、第二次世界大戦中のアドルフ・ヒトラーの時代に生きたオーストリアの精神科医で心理学者のヴィクトール・フランクルの研究者でもあるのです。その諸星祥彦さんが、自己の内面が空虚であることを認めざるをえないときに読む本として「知の教科書 フランクル」という本の中でフランクルの言葉というものを紹介してくださっています。そこで言われていることは、現代人の多くが「空虚を埋めるための方便」つまりうそ・偽りの中で生きているということです。引用しますと「特に大きな悩みがあるわけではないけれど、どこかむなしい、何か足りない、という空虚感。それから逃れようと、人は仕事に遊びにと明け暮れる。もし立ち止まって、自分の心がむなしいこと、からっぽであることを認めてしまうと、たちまちにして「底無し」の泥沼へと引き込まれていってしまうから。それを恐れて現代人は、ますます生活のテンポを速めていく。たえず自分を忙しくすることで感覚を麻痺させてしまおうとするのである。」たえず自分を忙しくすることでこの空しいという感覚を感じないように感覚を麻痺させているということなのです。

 そこで諸星祥彦さんはフランクルの言葉を引用して、本当の人生とはなにかということをいうわけです。本当の人生とはなにかフランクルは言っています。「どんな時も、人生には意味がある。何かが、あなたを待っている。誰かが、あなたを待っている。あなたの人生には、あなたが果たすべき使命(ミッション)が与えられている。たとえあなたが、今、どんなに塞ぎこんでいようとも。あなたが人生に絶望しても、人生があなたに絶望することは、けっしてありません。絶望の果てにこそ、光が差し込んでくるのです。」フランクルはユダヤ教徒でユダヤ人ですけれども、神様を信じる人です。そのフランクルが、人生には意味があるといい、何かが、あなたを待っているといい、そして誰かが、あなたを待っているといった場合のこの誰かとはつまり神様のことなのです。そしてかならず私たちの人生には私たちが果たすべき役割、その使命があるのだということなのです。だから私たちがどんなにふさぎ込んでいても、人生に絶望するとしても、人生があなたに絶望することはないと言っています。そして絶望の果てにこそ、光が差し込んでくるのです。とさらにいっているのです。

 25節では「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」と言われているのです。死んだような状態にある者、神様の救いの出来事を知らないもの、イエス様を救い主と受け入れていないもの、信じないものが、その神の声を聞く時が来るとおっしゃっているのです。じゃあ神様の声を聞くときとはいつなんでしょうか。イエス様はまさに「今やその時である」神様に定められた大切な救いの時、カイロスだと仰っているのです。まさにそのカイロス、「その時」とは聖書のみ言葉を読む時、説教がなされるとき、そして礼拝のときなのです。今がその時である、礼拝している今が、キリストの命に与っている、キリストの恵み、幸いを覚えるときであることが示されているのです。そして「その声を聞いたものは生きる」と示されているのです。神様によって救われたものとして生かされた喜びがまさに聖書には有るのだということではないでしょうか。そして礼拝に与る恵みにはまさに心が魂が救われていき、霊的に生かされる喜びがあるだから多忙さに逃避するのではなく、空虚さを埋める方便に生きるのではなくて、キリストの命に与る希望を証言している礼拝に与るその恵みがどんなに大きいものであるかということなのです。そのことを覚えて私たちはイエス様を救い主とすることで「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」いるものであるそのめぐみを覚えたいのです。そのことが本当に大切なことなのです。主イエス・キリストを救い主として告白していくこと、そのことが私たちにとって何よりの喜びであり、希望であり、生きる糧がそこで与えられていくのです。そのことを覚えて、イエス様が示して下さっている、復活の命、永遠の命、そして神様のご支配の中で生かされるものでありたいのです。
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2020年7月20日 (月)

7月19日主日礼拝説教音声データー

「キリストの命に与る希望」ヨハネによる福音書5章19~38節

7月19日の主日礼拝説教音声データーです。神様からの希望をいただいて歩んでいきましょう。

 

2020年7月16日 (木)

7月12日主日礼拝説教要旨

命の与え主であるキリスト」 ヨハネによる福音書4章43~54節

 本日のみ言葉、ヨハネによる福音書4章43~54節では、表題にも示されていますように、「役人の息子をいやす」主イエス・キリストのお姿ということが示されています。そしてこの出来事というのは、ヨハネによる福音書2章で示されている「カナでの婚礼」に続いて、イエス様がこの地上で示された第二の奇跡、つまり救い主としての第二番目のしるしとして示されている出来事なのです。ヨハネによる福音書4章46節にその「カナでの婚礼」出来事が覚えられていまして、「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。」ということ。つまりイエス様が、結婚式においてまさに水をぶどう酒に変えられたところがこのカナという場所であったということなのです。カナと地名ですけれども、ヨハネによる福音書は、その地名の意味ということにおいても、そこに意味をもたせています。カナとは、まさにあの神様の創造の出来事、無から有、無いものから有るものを創造する、形作るという意味があります。それはこれから起こる出来事、この役人の息子の命を生き返らせる、死にそうになっている命を、再び創造する、形作る、新たに命を与えるキリストの救いの出来事をすでにこの出来事がガリラヤの「カナ」に再びイエス様が行かれた時に起こった出来事なのだということで、福音書記者であるヨハネはこれから起こる第二の奇跡の意味をこのカナという言葉ですでに私たちに示そうとしているのだということになるのです。

 そのような偽物の信仰と本物の信仰を見分けるためにイエス様はご利益信仰に陥らないようにこのような批判的な言葉をこの役人の男性仰ったのです。じゃあこの男性の信仰はご利益的な「しるしや奇跡」を求めるものだけであったでしょうか。そうではなかったということです。49節で「役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。」とイエス様にその家に来て、しるしによって、つまりイエス様が実際に言って業を行うことによって息子が癒やされることを願っています。しかし、ヨハネによる福音書4章50節で本当に大切な事柄が示されていくのです。そこを見ていただきますと「イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」つまりこの役人の男性の信仰はご利益的なものではなく、イエス様の言われた言葉を信じて帰ることができる信仰だったということなのです。そのことが「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」という出来事に示されています。この男性は本当にただイエス様の仰った言葉を、その言葉のみを信じて帰ったのです。それはイエス様が仰った「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである。」という信仰がこの役人の男性にはあったということなのです。わたしを見ないでという言葉は、わたしのしるしや奇跡を見ないで信じるものはということなのです。ヨハネによる福音書はまさにイエス様の救いの出来事というのは、そのようなしるしや奇跡にあるのではないことを示しています。そこにイエス様の救いの中心があるのではなくて、そのようなことは旧約聖書の預言者でも現してきたことです。そうではなくて、イエス様の救いの出来事というのは、わたしたち人間が決して成し遂げることができない、十字架と復活の救いの出来事にあるということなのです。

 50節で言われている「イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」というこの「生きる」という言葉は、そこでまさに命の与え主である主イエス・キリストのみ言葉が働くことによって、やがて示されるキリストの十字架と復活の救い、永遠の命に生かすキリストの言葉が示された時に、そこで本当にこの息子さんが神様の命に、永遠の命に生きるものとなったということを現している出来事なのです。つまり単に生き返ったとかそういう話ではなくて、イエス様の働きにより、この息子さんが新しく生まれ変わったということなのです。しかもその出来事はこの役人がイエス様の言葉をただ信じて帰った、その「見ないで信じる」すべては神様からいただく良いものであるということを信じて歩む信仰、命の与え主であるキリストの言葉を信じて歩むという信仰によるということなのです。そしてその信仰によってこの息子さんに命の与え主であるキリストによって、人間は死から、もう一度新しく生きなおすことができるというしるしが起こったということなのです。私たちが本当に死ぬような体験、辛い体験、自分の人生がもうだめになるのではないかというようなそのような時において、つまり生きる意味を見失う時に私たちはイエス様が共にいて下さることで、命の与え主であるキリストが本当に私たちにみ言葉を下さることによって、もう一度新しく生き直すことができるのだということなのです。新しい一歩を踏み出すことができる。だからこそ、そのキリストの救いの与ること、洗礼を受けることには大切な意味があるのだということです。わたしたちにとって大切なことは、そのことを人間的に考えてはならない、神様に委ねて、「見ないで信じる」信仰のあり方の中で歩めるかどうかなのではないでしょうか。私たちはイエス様が本当に私たちに命を与えて下さる救い主であるかどうか、そのことを本当の信仰をもって受け止め歩むことなのです。そのときに自分中心のご利益信仰から、神様を第一として歩む、主役として、どんなときも歩むことができる生き方へと変えられていくことができるのではないでしょうか。そのことを覚えて、また新しく始まる日々の歩みを命の与え主であるキリストと共に歩んで行きたいのです。

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2020年7月13日 (月)

7月12日主日礼拝説教音声データー

「命の与え主であるキリスト」

7月12日主日礼拝説教の音声データーです。

命の与え主であるキリストを覚えて歩みましょう。

2020年7月10日 (金)

7月5日主日礼拝説教趣旨

キリストの平和」 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 私たちが平和ということを考える時、どのようなことを思うでしょうか。私たち人間はこの平和ということを求めていきますけれども、またそれは同時になかなか与えられないもの、日常生活で様々なことがあって、とても平和とは言えないような現実ということもあるのではないでしょうか。その中で本日のみ言葉、エフェソの信徒への手紙2章11~22節では、キリストによる平和ということが示されています。それは何よりもエフェソの信徒への手紙2章14節でこのように示されているからです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、」と示されているからです。この二つのものというのは、二つの敵対しているものということです。敵、味方であったものが、まさにキリストの救いの出来事、十字架による罪の赦しの出来事によって神様の平和、キリストによる平和の出来事に招かれているということなのです。

 聖書示される平和ということは、単に戦争がないとか、日常生活が無事に、穏やかに、安らかにおくれるということがあれば、それが平和なのかというとそうではありません。表面的な平和ということがあるわけです。現代の日本人である私たちも表面的な平和ということがありますけれども、それが本当の平和なのか、今の日本の社会が本当に平和なのかと言われれば、今回の出来事を通しても、まさに平和とは言えないような現実がそこにはあるのです。この手紙を記したパウロはキリストによって、今までは神の民とされてきたイスラエルの人々とその他の外国人である異邦人はまさに争っていて平和がなかったということだけではありません。表面的な戦争とか争いのことだけではなくて、表面的には平和であっても、価値観や何よりも心のあり方の中において、本当にわかり会えない、理解し合えない状況があったということなのです。11節では、そのようなお互いがお互いを区別し、わかり会えない状況について、割礼を受けているイスラエルの人びとからこのように言われていたではないかと示されているわけです。そこでは「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」そこにはキリストによる平和ということはありません。聖書のみ言葉で示されている平和がないのです。

 そしてそのキリストによる平和がないということはまたこういうことであることが次の12節ではこのように示されていくのです。「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」これは、神様の救い、イエス様の救いの出来事を知らない、救いに与る前の私たちの姿ということを示しています。そして表面的には平和であっても、まさに「この世の中で希望を持たず」と示されていますけれども、本当に希望がなければ平和ではないのです。そういう意味で言いますと、希望が持てないような現代の社会に生きる私たち日本人が聖書のいう本当の平和な社会に生きているのかというと決してそうではないということが示されているのではないでしょうか。

 そしてこの聖書の御言葉を記したパウロはまたコロサイの信徒への手紙3章15節のみ言葉で、このキリストによって与えられる平和についてこのように示されているのです。「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」私たちはこのキリストの平和に与るためにどこに招かれているのか、それはまさにキリストの体である教会です。この平和に与るために私たちは教会に招かれているのです。そしてそれはもともと私たちの中にあった平和ではありません。神様によって、キリストによって与えられていくつまり本当に私たちの心が信仰によって成長する中で、私たちが神様によって贈り物として与えられていく平和という心の有り様なのです。

 そしてこの聖書の御言葉を記したパウロはまたコロサイの信徒への手紙3章15節のみ言葉で、このキリストによって与えられる平和についてこのように示されているのです。「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」私たちはこのキリストの平和に与るためにどこに招かれているのか、それはまさにキリストの体である教会です。この平和に与るために私たちは教会に招かれているのです。そしてそれはもともと私たちの中にあった平和ではありません。神様によって、キリストによって与えられていくつまり本当に私たちの心が信仰によって成長する中で、私たちが神様によって贈り物として与えられていく平和という心の有り様なのです。

 そのように私たちの心が魂がキリストによる愛、決して力で押し付けてくるような平和ではなくて、キリストが私たちを愛してくださり、私たちの罪を赦してくださるからこそ与えられる平和、そしてキリストにより本当に神様との和解の出来事、それまで神様に背を背いて生きていた私たちが神様の方に向きを変えて生き直すことができるからこそ与えられる平和がそこにはあるということなのです。エフェソの信徒への手紙2章16~17節ではこのように示されています。そこでは「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」本当にイエス様が示してくださっているのはこの平和の福音、平和の訪れ、よき知らせであるということなのです。ですので、人を憎んだり、恨んだり、本当に人を裁いたりすることはこの平和の福音をもたらす、キリストを悲しませるものであることがわかるのではないでしょうか。このキリストを要石とすることによって、本当にキリストの教え、み言葉を大切にすることで私たちは霊的に建物が完成していくように成長していくのです。そしてそれは私たちがキリストの平和によって生かされていくことはまた私たちの教会がこのキリストの平和によって生かされていくということです。そしてこの世界に本当に「力による平和」ではなく「神の愛による平和」がいかに大切か「キリストの平和」に与る私たちが示していくということなのです。そのことを覚えて、本当に私たちが今こそ、本当にこの世界にキリストの平和が満たされた世界になるように祈っていきたいのです。またそのためにキリストの救いの出来事を証ししてまいりたいのです。

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2020年7月 8日 (水)

7月5日主日礼拝音声データー

「キリストの平和」エフェソの信徒への手紙2章11~22節

7月5日主日礼拝音声データーです。キリストの平和の内にあって歩みましょう。

2020年7月 3日 (金)

6月28日主日礼拝説教要旨

「キリストによる新しい救い」ヘブライ人への手紙12章18~29節

 今日、聖書のみ言葉を通して示されていること、それは様々なものがありますが、何よりも私たち人間の救いについての事柄が示されています。それは取り敢えず、経済的に困っていなくて、不安も感じていなければ、自力でなんとか生きていけるという人にとっては必要のないもの、表面的な救いの出来事を聖書が示しているわけではないのです。聖書が示しているものそれは私たち人間が与るべき根源的な救いの出来事です。本当に私たち人間の気持ちや行いというのは、すぐに揺り動かされしまうもの、周囲の状況にすぐに不安を感じたり、戸惑ったり、怯えたりしてしまうものであるということです。そして人生において打ち込む物があれば別ですけれども、それがなくなれば、その心は虚脱感で空しくなる。自分の人生の終わり近くにこの虚脱感に襲われ、自分の人生は何だったのか?とその人生の終わりに空しい気持ちになる人は多いのです。その中でこの方は、「揺るがないものがほしい、今度こそは、自分勝手な信仰ではなくて、誠実に神様に従いたい」と願ったということですが、これこそがまさに私たちの救い主である主イエス・キリストの新しい救いに与っていくということではないでしょうか。本日の聖書のみ言葉では、この新しい救いの事を「契約」という言葉を使って示しています。契約とは神様との約束のことです。私たちが神様の救いに与ってく上で大切にしなければならない約束があるのだということなのです。それはどのような約束でしょうか。聖書では何よりもイエス様を救い主として、イエス様のみ言葉に聞き、イエス様に従わなければならないことが示されています。それは私たち人間というものは結局、自分の業や行いによって神様に認められて良しとされることはないからです。

 今日のみ言葉では私達人間の救いの事柄というのは、自分の行いや正しさによってではなく、救い主であるイエス様の行いや正しさによってもたらされる者であることを示しています。そしてイエス様を私達人間が神様の救いにあずかることができるようにして下さるお方、その契約を仲立ちし、助けて下さる仲保者であることが示されているのです。イエス様こそ、私たちに救いに導く新しい契約、約束をもたらす仲保者であることが「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」と示されていまして、この救い主であるイエス様によってイエス・キリストがご自分の命を私たちの罪のために十字架で犠牲にしてくださったがゆえに私たちは裁きの場で神様に出会うのではなく、愛の場所であるいは赦しの場所で神様と出会うことができるようになるということなのです。これがキリストによる新しい救いの出来事です。そしてこの新しい救いには私たちの救い主であるイエス・キリストを通してのみ、与ることができるのです。そこには裁きの場で出会うような先ほどの18~19節、さらに21節で示されているような恐ろしさというのはないのです。私たちはイエス様によって、キリストによる新しい救いに与ることによって罪があり、その資格がないにも関わらず、すばらしい場所で神様と出会っていくことができるようになったのです。そのことの恵みが本日のみ言葉には示されています。そしてその神様とのすばらしい出会いを果たしていく場所が私たちの教会なのではないでしょうか。

 そして何よりもヘブライ人への手紙12章25節では「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」と示されています。新しい契約の仲介者であるイエス様の救いに与っていながら、そのイエス様を拒むことがないように、ということです。それはつまりイエス様が悲しむような生き方をすることがないようにということです。せっかくイエス様が私たちを救ってくださったのに、その生き方の向きを変えることなく、イエス様に従っていく恵みを味わう、礼拝もせずに、そして何よりも神様に、イエス様に感謝の応答として、ささげものも、奉仕もせずに、そしてそのキリストによる新しい救いの喜びも語らずに、また自分の業や行いを頼りとして生きていくということならば、それは「天から御旨を告げる方に背を向ける」生き方ということになるのではないでしょうか。そのようなことはまたイエス様によって示されているこの新しい救いの出来事、新しい救いの約束に背を向ける生き方なのです。

 そうではなくて、イエス様の新しい救いの契約とはまさに神様の愛によって生かされていく契約であるのです。神の国、つまり神様のこの世界でのご支配を信じ、神様の導きのもと、神の民として神様への応答としての礼拝を守っていく生活であり、恐怖ではなく、本当に敬い、恐るべき方を恐るという生活であるからです。ヘブライ人への手紙ではそのような神様を神様として、応答していく生活の中で私たちは聖書で示されている神様の恵みの豊かさを覚えていく大切さが示されています。本日のみ言葉の少しあとヘブライ人への手紙13章5節後半では、「神御自身「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない。」と語って下さるその恵みをここで示しています。そして何よりも本日のみ言葉、ヘブライ人への手紙12章28節ではこのように示されているということです。「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」私たちは感謝して、本当に神さまの命、永遠の命を受け継ぐものとして生かされている幸いを覚えて、キリストによる新しい救いに与ったものとしてそのことを感謝して、神様に喜ばれるように神様に仕え、キリストによる十字架と復活の救いこそ、私たち人間を本当に新しく生かして下さるものであることを伝えてまいりたいのです。

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2020年6月28日 (日)

6月28日主日礼拝説教音声データー

「キリストによる新しい救い」 ヘブライ人への手紙12章18~29節

6月28日の主日礼拝説教音声データーです。イエス様によって、神様の救いに与っていきましょう。

2020年6月21日 (日)

6月21日主日礼拝説教要旨

「洗礼者ヨハネの証言」 ヨハネによる福音書3章22~30節

 私たちは今、この聖霊降臨節の主日礼拝におきまして、教会にとっても、そして私たち1人1人に取りましても大切なことはなにか?ということをみ言葉から示されています。そしてその中にありまして、本日説教されるべきみ言葉はヨハネによる福音書3章22~30節です。そしてここでは洗礼者ヨハネの証言ということが示されています。つまり洗礼者、イエス様に洗礼を授けたあのヨハネがイエス様について証ししているということなのです。ではどのような証しでしょうか。2つそのポイントがあると思います。1つはイエス様は花婿として譬えられているということです。つまり花嫁を迎えるべきお方、結婚式ではまさに主役として、ヨハネはそのように証言しているということなのです。そしてもう1つは、まさに本日のみ言葉の最後、ヨハネによる福音書3章29~30節でこのように証言しているということになります。そこでは「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と示され、もう1つの大切な事柄としては、洗礼者ヨハネ自身をその花嫁の介添人、仲人でしょうか。その立場にあるものとして譬えているということです。

 ヨハネは本当に大切なこと、そしてイエス様の救い主としての本質を決して見失わなかったということです。そして弟子たちに対してもはっきりこのように言っているということになります。ヨハネによる福音書3章27~28節、そこでは「ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」考えてみますと、今の時代本当に自分が主役になりたい、自分を目出させたい人が多いわけです。自分を誇り、傲慢になっていきます。ヨハネははっきりとそのような私たちに言っています「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」つまり人にはそれぞれ神様に託されている使命があるということなのです。そして、その使命を果たすための才能というのは、まさに人ぞれぞれであるということです。ドラマも主役の人がいれば、まさにその主役を引き立たされる、名脇役という人もいるのです。誰もが主役であるならば、まさにドラマは成り立ちません。教会も同じです。教会の主はイエス様であり、ヨハネが言うように私たちは主の脇役として、イエス様のみ心がなるように、働くのです。教会は自分を主役にした自己実現の場所ではありません。イエス様に仕え、神様に仕えていく、その愛に応答していく場所なのです。神様が下さっている恵みの数々、救いの、その希望の数々に、そして今までの人生のその神様のお導きと守りに感謝して応答していくのが私たちであるのです。そのことを忘れてしまうと傲慢になったり、あるいは人を妬んだり、教会で争いが起きたりするのではないでしょうか。私たちが主の脇役として、神様の御恵みとイエス様のその救いの出来事を証ししていく教会となることができるように祈り歩んで参りたいのです。

 人間には自分を救うことは、自分のことを何とかすることはできたとしても、人を救ったり、他の人を何とかする力はありません。私たちは本当にメシアではないのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」そしてヨハネは証言しています。介添人であるヨハネは、花婿に仕え、本当に花婿のために働けることを喜んでいるのだということです。それはまさに花婿であるイエス様の救いのみ言葉を聞くことができるからだということです。その介添人の仕事に成功も失敗もありません。私たちはイエス様の友とされ、介添人として働く時、イエス様のみ言葉に生かされて、イエス様を証ししていく時、まさにそのみ言葉を聞けることを喜び、その喜びの中で花婿であるイエス様に仕えていくのだということをヨハネは証ししているのです。だから、本当にそこでは、嫉妬も、妬みも、仕事の成功も失敗もないのです。なぜならばすべては神様が道を備えてくださっている事柄であるからです。そしてこの私の才能とか、私の思いや私の力というその自己中心的な考え、自分が主役であるということは本当にイエス様の御言葉を聞く時に、イエス様を主役として、そのみ言葉に生きる時に邪魔な事柄であることをヨハネは本日のみ言葉の最後でこのように言っているのです。ヨハネによる福音書3章30節、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」私たちは教会でわたしたち人間の思いが栄えないように、人間の偽りの栄光を現す場となることがないように祈りたいのです。それは衰えなければならないものであることを自覚したいのです。そして、聖霊によって霊的な養いの中で、イエス様のみ旨を示され、神様のみ心に従い生きるものとなりたいのです。そのときに洗礼者ヨハネにも与えられている本当の喜びが私たちにも与えられるのです。そのイエス様に仕えていく喜びの中でヨハネによる福音書が示しているあるいは花婿である主イエス・キリストが示してくださった、永遠の命、神の命に与ることができるものとなるように聖霊を与えられていきたいのです。そして花婿である主イエス・キリストのみ言葉に耳を傾けていきましょう。

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6月21日主日礼拝音声データー

「洗礼者ヨハネの証言」 ヨハネによる福音書3章22~30節

6月21日主日礼拝音声データーです。

花婿であるイエス様のみ言葉に聞き、神様によって生きる喜びに満たされて行きましょう。

2020年6月17日 (水)

6月14日主日礼拝説教要旨

「教会の宣べ伝えている言葉」 ローマの信徒への手紙10章5~17節

この聖霊降臨節の礼拝において、聖書より示されていく事柄は、まさに私たちに与えられている信仰を養い、神様のみ言葉の真理を告げる聖霊についてのおしえということになります。しかし、それだけではなくて、その聖霊、神様の霊であり、イエス様の霊でもあって、私たちの心に宿っていく聖霊ということだけではなく、その聖霊の賜物を、贈り物を送られている教会とは何かということについても考えていくということになるのです。本日説教されるべきみ言葉、ローマの信徒への手紙10章5~17節では、その教会つまり私たちのこの豊橋教会が宣べ伝えている言葉とは何か?ということがこのみ言葉において明らかにされていくということになるのです。

 まず教会とは何か?ということそのことについて考えてみたいと思いますが、もともと教会を現すギリシア語は「エクレーシア」ということです。そしてその意味は「集められた者」ということです。では誰によって集められるのでしょうか?まさに神様によって、神様を信じ、従う民として集めされていくということです。そして新約聖書によれば、最初イエス様によって集められた弟子の集団というものがあり、そのイエス様の弟子の集団が、聖霊降臨日、ペンテコステによって最初のエルサレム教会となりましたので、まさにそれは私たちの救い主であるイエス様によって集められた者という意味があるのです。ですから教会おいて何よりも大切なことは、まさに聖書にも示されているように、誰が教会の土台の石であり要石であり礎であるのか。神様の救いに与るためにはどうしたら良いのか?そのことを明確にはっきりと伝えていくし、私たちも何度もそのことを確認していくということなのです。

 パウロは私たちが神様の救いにあずかるためにどのようにしたら良いのかをはっきりと本日のみ言葉、ローマの信徒への手紙10章9節におきまして、このように明らかにしていますそこでは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」まず口でイエス様が救い主であることを公にそれは他の人の前でということです。他の人の前で告白していくこと、証ししていくこと。このことが何よりも大切であり、その心で、まさにイエス様の復活の命に聖霊なる神の助けをいただきながら与っていくこうした信仰ということが私たちを救い、生かしてく事柄であることを語っていくのです。

 本日のみ言葉の最後、ローマの信徒への手紙10章17節におきましてそのことがしめされ、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と示されています。聞こえないふりをしてはいけないということです。そして聖書のみ言葉を自分に都合よく勝手な解釈で読むのではなくて、先週示されました、教会の健全な教え、イエス様が使徒たちに伝えた教えに照らし合わせて正しく受け止めていくことが大切なのです。それはつまり耳が痛い教えも、私たちの内側に働く聖霊によってしっかりと受け止めて聞いていくということでないでしょうか。

 私たちの救いの出来事、それは私たち人間のすべての苦悩、孤独、苦しみや悲しみをよくご存知である主イエス・キリストにあります。そしてイエス様が示して下さった死に勝利された十字架と復活の出来事に救いの出来事が示されているのです。教会はそのことをいつの時代も伝えていくのです。どんなことがあっても「主を信じる者はだれも失望することがない」と言われているよき知らせ、希望の福音を伝えていくのです。そして神様の方にいつも顔を向けて生きるのです。そしてもし影にとらわれて絶望してしまうような生き方をしてしまいそうになったら、生きることに希望を失うときにはキリストの福音、救いの出来事、聖書がそして教会も、私たちの近くにあることを思い起こすのであります。神様が私たち1人1人を神様のみ言葉を聞くことにより、良い知らせを伝えるものとして下さいます。そして「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と示されています。そのように教会の宣べ伝えていく言葉には、人間には決して与えることのできない希望があり命があり、そして救いがあるのです。そのことを確信をもって伝えていく者となることができるように祈り、歩んでいきたいのです。

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2020年6月14日 (日)

6月14日主日礼拝説教音声データー

「教会の宣べ伝えている言葉」 ローマの信徒への手紙10章5~17節

6月14日の主日礼拝説教の音声データーです。

どんな時も神様が与えてくださる失望することにない希望に生かされて行きましょう。

2020年6月 8日 (月)

6月7日主日礼拝説教要旨

「信仰の戦い」 テモテへの手紙一6章11~16節

 先週の礼拝において、私たちは神様によって約束された贈り物としての聖霊が最初の教会に降ったペンテコステの出来事、聖霊降臨の出来事を聖書のみ言葉によって示されました。それはまた現代の私たち教会に集うものに与えられているということなのです。聖霊は神様の命に与っていく心を与えてくださる霊であり、神様の1つの働きとしての聖霊なる神が私たちと共にいて、キリストの示してくださっている復活の命に与ることができるように私たちの人生を導いてくださっているのだということなのです。

 そして神様を信じる信仰、あるいはキリストをこの私の救い主として信じて、従う信仰を守るということにおいては、やはりそこで「信仰の戦い」ということが起こってくるということです。本日のみ言葉、テモテの手紙一6章11~16節では、その「信仰の戦い」ということが示されていくということになるのです。このテモテの手紙は、元々キリストの救いを、福音を伝える伝道者であった使徒パウロがその弟子に、まさに教会を牧会する牧会者として何が一体必要かをアドバイスし、教えるために書かれた手紙でありました。テモテは「信仰によるまことの子」とこの手紙の1章2節で言われているように次の世代のクリスチャンとして、本当に大切なものはなにかということを受け継ぎ、神様とイエス様に従っていく心を聖霊によって与えられ、信仰の道を真っ直ぐに歩んでいた人物であると言えるのではないでしょうか。 そのテモテにパウロはエフェソという場所に留まり、そしてこのエフェソには、聖書の中にエフェソの信徒への手紙というものがあるようにそこに教会があったのですが、その教会を指導しなさいとすすめるのです。そしてそのエフェソ教会を導くにあたって、気をつけなければならないいくつかのことを示していくのですが、その中に「偽りを言うもの」「偽りの教え」ということがあったということを明らかにしています。ではこの偽りの教えとは一体どのようなものであったでしょうか。様々なことが考えられますけれども、その大きなものとしてはやはりイエス様の十字架と復活の救いの否定ということでしょう。それは現代にもあります。もしこのイエス様の十字架と復活の救いの出来事を否定するならば、それは神様の救いの出来事が全く無駄になってしまうのです。神様はイエス様によって本当に私たちの罪を十字架によって赦して下さり、救ってくださったのにその出来事が無駄になってしまいます。そして、十字架の出来事のあと、イエス様は人間の裁きとしての死の出来事に勝利された復活の出来事、それは神様の命、永遠の命を示して下さっているのですけれども、そのことも無駄になってしまうわけです。本日のみ言葉でまず「信仰の戦い」ということで考えられていることはこれらのエフェソの教会で偽りの教えを伝えるものとの戦いなのです。教会の中にそのようにまるでイエス様の救いとは正反対のような事柄を語り、教えているものがいたということなのです。

 その「偽りの教え」に対して、本日のみ言葉、テモテへの手紙一6章12節ではこのようなみ言葉が示されていまして、そこでは「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と示されています。この永遠の命とは、まさにイエス様の復活の命のことであり、イエス様がイースター以後に示してくださった復活の命、永遠の命に与るためには本当に健全な教え、それはイエス様が弟子たちに教えてくださったその教えに基づかなければ、この命を手に入れることはできないのです。

そしてパウロはこの神様に対する、イエス様に対する信仰から脱落する人々がいることを示しています。それは先程の偽りの教えに意味を傾けたり、惑わす霊や悪霊の誘惑に負けてしまったがゆえにそうなってしまった。悪魔の罠はそこかしこにあるのだということを示しています。そしてテモテに対しては、この信仰の戦いを立派に戦い抜くために本日のみ言葉、テモテへの手紙一6章14節でこのように言っているのです。「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」つまりこの戦いというのは、神様の前にどうであるのか、この世の生涯を全うし、イエス様のみ前に立つ時にどうであるのかということなのです。そしてそれは決して一人で戦う戦いではありません。真理の霊であり、私たちの弁護者、私たちを守り、正しく導いてくださるその聖霊によって戦う戦いであり、何よりも私たちの救い主であるイエス様が共にいて戦ってくださる戦いであるということなのです。 

 私たちはこの戦いに勝利し信仰を守り通して、すでに神様のみもとにおられる多くの信仰の先輩達を思います。私たちはこの戦いを私たちの行い、それはなにかこれだけ行いを積めば、修行すれば強くなるという方法で戦っていくのではありません。ただキリストを救い主として信じる信仰によって、そしてその信仰の応答として礼拝を守り、み言葉を受け、霊的な養いを受け、成長していくことによって戦っていくのです。そして何よりもまずそこには神様がイエス様の救いに招いてくださっているという決定的な神様の愛があるということなのです。そのことを覚えて、教会がそして私たちが聖書の伝えている正しい教えから、イエス様の救いの出来事、神様の示して下さっているその救いから的を外すことがないように祈り、真理の霊である聖霊を求めていきたいです。そして共に支え合い、祈り合いながら、様々な誘惑から私たちが守られるように信仰の戦いを共に戦っていきたいのです。

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2020年6月 7日 (日)

6月7日主日礼拝音声データー

「信仰の戦い」 テモテへの手紙一6章11~16節

6月7日の主日礼拝音声データーです。イエス様が共にいて、導かれ、支えられて歩んでまいりましょう。

2020年6月 2日 (火)

5月31日主日礼拝(ペンテコステ)説教要旨

「教会に降る聖霊」 使徒言行録2章1~11節

 イースターから7週間後の今日の主の日は、まさに私たちに取りまして、クリスマス、イースターと並ぶ大切な記念日であるペンテコステの日です。日本語では聖霊降臨日と言われている今日神様は約束された大切な贈り物として私たちイエス様を信じて従う人々の集まりである教会に、この聖霊を送って下さったのです。その出来事については聖霊降臨日に必ず示されてる本日のみ言葉、使徒言行録2章1~11節において明らかです。使徒言行録2章1~4節の出来事を見ていただきますとそこでは「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」この神様の霊である聖霊が教会に降るということ、それはイエス様の昇天の出来事において約束されていたこととはいえ、突然であったということがわかります。そしてそれは一同つまり弟子たちが心を1つのして祈っていたそのようなときにこの聖霊が神様から遣わされるということが起こったのだということです。そして聖霊は「激しい風」であり「炎のような舌」であると表現されています。炎とはまさに暖かく、光を伴った現象としてのたとえですけれども、これからの表現で表されているもの、示されているものは、聖霊とはまさに私たちにあつい心をもたらすものなのだということではないでしょうか。それは情熱ということです。どのような情熱でしょうか。それはまさにイエス様を神様を証ししていく、イエス様の力ある技を伝えていく、そしてイエス様のみ言葉による教えを伝えていく、さらに十字架と復活の救いの出来事を伝えていくという情熱です。

 使徒言行録2章5~8節によりますと「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」という出来事が示されています。五旬祭というのは、もともとユダヤの人々のお祭りです。その当時の世界中からユダヤ人たちが集まっていたということなのです。そして世界中から集っているそのユダヤ人がそれぞれ、その住んでいるところ、故郷の言葉で聖霊を受けた人が話しているのを聞いたというのです。しかもただ話しているのではなくて、その故郷の言葉で、イエス様の救いの出来事、救い主であるイエス・キリストの十字架と復活の救いの出来事を聞いたということになるのです。それはまた聖霊によって世界中にこのキリストの福音が伝えられいく、伝道されていくということを表している出来事だと言われています。この日以来、神様は本当にそのご計画、あるいはその時として、この世界のありとあらゆるところに教会を建て、イエス様と出会い、その救いに与っていく人々を起こされていくということなのです。聖霊とはそのように私たちに伝道するその力を与えてくださるものなのです。伝道は人間的になされる業ではなく、神様がその働きをしてければ、私たち人間の力によってはもちろん限界がありますし、とても果たしていくことができない教会の働きなのです。

 そしてさらにこのように大勢の人々の、大勢の言葉が話されていく、それぞれの国の言葉が話されていくということは、聖霊とはまさに私たちに交わりをもたらしていく霊であるということがいえます。教会は様々な人々が集まる場所であり、人間的な思いも様々であります。「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」とこのとき、人々はあっけにとられたことが示されていますが、そのようにすべての人々、出身地も性別も、そして年齢も違う人々がまさに一致して救い主イエス・キリストに従い、神様の御業を表していくことはまさに人の業ではなく、聖霊の働きによるものなのです。そのように聖霊は私たちに主なる神様、そしてイエス様による出会いと交わりをもたらしていく霊だということなのです。そしてすべての人々にまた交わりだけではなく、神の愛を注いでいくということなのです。神様はすでに旧約聖書エゼキエル書39章29節でこのように約束されています。そこでは「わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」イスラエルとは何度も言うように「神の民」ということです。神の民のその家つまりそれは教会のことです。豊橋教会もまた神の民のその家、帰るべき故郷であるといえます。その教会の人々に神様はもう二度とわたしは「わが顔を彼らに隠すことはない」と仰ってくださり、そしてわが霊つまり聖霊を注ぐとはっきりとここで示してくださっているということになるのです。

 私たちが一致していくのは、決して人間的な思いによって一致するのではありません。人間的には考え方も、そして好み、好きなもの、嫌いなものも様々である私たちが一致できるのは、この聖霊の働きによるのです。私たち教会は人間的な思いによって歩むのではないのです。今回のことを通してもそのことを思わされます。礼拝が私たちにとって如何に大切か、神様から御言葉を示され、教えられ、従い、神様の方を向いて人生を歩むこと、神様との出会いという出来事が私たちが生きていく上でいかに大切なことであるかということです。聖霊降臨日に起きた出来事は、そのような神様に従う人々に神様がまさに賜物として聖霊を送ってくださった出来事です。他の人々はそのことにあっけをとられ、ペトロの語った福音の言葉、説教を聞くと聖霊を受け、使徒言行録2章37節で「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った」ということなのです。そしてこれに対してペトロは38節で「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」とはっきりと語っています。洗礼を受け、クリスチャンとなり、そして聖霊を受けることの大切さがここで語られているということなのです。私たちはこの教会に送られ続けられている聖霊なる神という神様からの大切なプレゼントを思わされます。それは私たちの感情に左右されずに、いつも私たちにその霊的な恵み、賜物として神様に従う心、イエス様に従う心を与えてくださるのです。私たちはこの聖霊によって霊的な健康を保ち、神様に従い、イエス様を証しし、一致して歩んでまいりたいのです。

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