2021年12月 4日 (土)

11月28日主日礼拝説教要旨

「主なる神の救いと正義」 イザヤ51章1~11節

 今日からアドベント、待降節に入りました。この待降節におきましても、その前半は、神様の私たちに示されている救いの歴史、救済史ということに目を向けていきたいと思うわけです。そして本日説教されるべきみ言葉は、旧約聖書イザヤ書51章1~11節です。ここでは名もなき、預言者と言われている第2イザヤの言葉ということが示されています。この第二イザヤはバビロンの捕囚期に活躍した預言者であると言われています。その捕囚とはまさにバビロンの王であった、ネブカドネザル二世によって行われた占領政策のことでもあり、最初の捕囚つまりバビロンの地への強制連行、その流刑は紀元前597年に行われ、第2回の捕囚は、紀元前587~581年頃に行われ、第3回めの捕囚は、紀元前578年に行われました。つまり都合3回の強制連行ということがあって、この3回の捕囚の出来事によって、生き残った大半の人々は、故郷を遥かに離れた、ペルシャそのバビロンの地へと強制移住させられたということになるのです。国は滅び、麗しのおとめといわれた首都であるエルサレムの姿は見る影もなく、そして神殿は崩れ去っているわけです。主なる神の力が一体どこに示されるのか?人々が疑いたくなるようなそのような光景と状況が人々を取り巻いているのです。

 そのような中で、人々は実は「私たちの神は一体どこにいるのか?」と問いを投げかけているわけです。あるいはこの名もない預言者に向かって、「お前の神はどこにいるのか?」と問いかけているということになります。そのような国を追われた人々は、もう神様の恵み、救いの歴史どころではないわけです。昔はかつて、神様は私たちに向かって、救いを示してこられたかもしれない。けれども、もう今は神様の恵みや祝福は、私たちのもとを離れ去ってしまったんだと嘆いているわけです。そうした人々は神様にむかって直接の叫びをあげています。イザヤ章51章9~10節では、「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか。海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか。」という言葉が示されています。これは誰が誰にむかって語っているのか、議論のあるところですが、まさに人々が神様に9節では、その力を見せてくださいと願っている。「奮い立て」と神様にむかって叫んでいるのです。「かつてラハブを切り裂き、竜をつらぬいたのは、あなた」つまり神様、ご自身ではなかったですかと現在今、呼びかけても何もしてくれない神様にむかって叫んでいる人々の声だと示されることができます。あるいは、10節でも、まさにあの出エジプトのときに示された贖いの契約、神様の生きて働く、救いの恵みということが思い起こされていまして、かつてはそのように海を干上がらせて、道を開いて、エジプトの奴隷状態であった人々をその道を通らせて、エジプト軍の追手から救い出されたのはあなた、神様ではないかとその救い、救済の歴史が思い起こされているわけです。そして今は、その神様は何のみ業も、み力も私たちには示してはくださらないと嘆いているのです。

 つまりそれはどういうことかといいますと、神様自らが、そのように嘆きにある人々、そして悲しみの中にある人々、神様に正しさつまり正義がどこにあるかを尋ねる人々に語りかけられるということなのです。どのように語りかけるのか。それは、「わたしに聞きなさい」という言葉です。神様に対する疑問があるならば、そして問い直しや、振り返りがあるならば、わたしに聞きなさいということなのです。そしてその原点を忘れないようにしなさいということです。救われた日の恵み、神の民として祝福された日、アブラハムの子孫とされたその恵みをわすれないようにしなさいとおっしゃるのです。神様は私たちが悲しみの中にあるとき、嘆きの中にあるとき、自らその神様のみ言葉とお働きをもって、慰められるということなのです。どんなに神様のみ言葉が慰めに満ちたものか、そして神様の救いの歴史が慰めとそして祝福に満ちたものかもう一度、捉え直しなさい、と名もないこの預言者を通して、語りかけておられるということなのです。捕囚の中、神様のみ言葉を見失っている民に、神様は慰めの言葉を語り直されるのです。それは神様ご自身が私たちに対して、あなたがそう思っていることは本当に正しいことなのかを私たちに問われているということでもあります。そのように「問い直したり」「振り返る」ときには、まさに先ほど、否定的に用いられていた神様の救いが示されたけれども、「昔は神様の御業があったが、今は神様の御業示されない」という救済の歴史ということが現に今も働いている神様の救いの御業の証拠として現に生きてくるということです。聖書とはそのように、過去の出来事の記録ではなく、私たちがそこでそのみ言葉を通して私達自身がわたしたちを問い直したり、振り返るときに本当に生きて働く神様のみ言葉となるのではないでしょうか。まさに私たちが神様の正しさを求めるならば、聖書に聴く、神様のみ言葉に聴くことが何よりの解決方法なのです。

 そしてさらに、イエス様の救いとは、まさに嘆きと悲しみの中にある私たちを神様がそのみ心として受け止め、そして本当に私たちにその救いと喜びを示された出来事なのです。クリスマスはまさに救いの原点を見つめ直す大切なときです。そして神様が共にいて私たちが自分自身を省察することのできる大切なときなのです。第2イザヤは、あなたたちは、そのように、昔は神様の生きて働く大いなる御業が示され、今はその神様の働きが示されず、沈黙されたようだと嘆くけれども、神様のその救いの歴史ということは今も昔も、そして将来に向かって、決して変わることがないこと、その証拠に、再び、故郷であるイスラエルに帰るときが、きっとくることを本日のみ言葉の最後、イザヤ書51章11節でこのように語っているのです。そこでは「主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る。」

 主に贖われたもの、それは私たち1人1人のことです。その主に贖われた私たちは、その救いの出来事を省察し、心に留めるならば、どんなところにいても再び主のもと、神様のもと、つまり神様の都であるシオン、エルサレムに帰ってくるというのです。そしてそこでは本当に喜びの歌。神様を賛美し、喜ぶ賛美歌が聞こてくるというのです。なぜでしょうか。それは本当に神様のめぐみと慰めが今ここで語られているからです。この礼拝で、慰めの共同体である教会で、そのことがいつも語られています。だから贖われた私たちは教会へ帰ってくるということなのです。その幸いと恵みを覚えます。私たちが悲しみのとき、苦しいとき、そして辛いとき、神様の恵みがわからないとき、私たちがもう一度救いの原点に立つことの大切さ。そして主の恵みとその贖いをおぼえることの大切さを第2イザヤは私たちに訴えています。そこに主なる神の救いと正義があります。そして本当に神様が私たちと共にいて下さるとき、神様の命に与り生かさせるときに、私たちの嘆きと悲しみは消え去るのです。クリスマスはその恵みのときです。そのクリスマスをまた迎えるにあたって、本当に私たちは私たち1人1人に示された神様の恵みと導きを改めて思い、そのことに感謝するものでありたいのです。

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11月28日主日礼拝説教音声データー

「主なる神の救いと正義」 イザヤ51章1~11節

11月28日主日礼拝説教音声データーです。「わたしに聞きなさい」と仰る神に信頼して歩んでいきましょう。

2021年11月27日 (土)

11月21日主日礼拝説教要旨

「主に選ばれる王」 サムエル記上16章1~13節

 さて本日説教されるべきみ言葉、サムエル記上16章1~13節では、ダビデが王として油注がれるそうした出来事が示されています。この出来事というのは、最初のイスラエルの王であったサウルが神様のみ心に叶わず、神様に背き続けたために、新しい王を選ばなければならなくなったその出来事から始めされています。その最初の王を選んだのも、預言者サムエルでした、ですから、サウルが王から退けられることを神様から聞くと、本当にそのことで嘆いたわけです。サムエル記上16章1節では、「主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
 サウル王のことで嘆くサムエルに対して、ここで神様は、「王となるべき者を見出した。」と仰っています。ここで御言葉は、まさに神様ご自身が、エッサイの息子の中に、次の王となるものを見つけ出して、王の職務をその者に与えるということです。つまりここでは「選びの契約」ということが語られているということになるのです。そしてそのためにまさに世界中を捜さし、自らが見出したものに王としての職務をお授けになるということになるのです。さらに神様は、本日のみ言葉に示されていますように、その選びということを私たち人間のように選ぶことはないということです。サムエル記上16章6~7節ではこのようなみ言葉が示されていまして、そこでは「彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」確かに神様に選ばれるべき次の王はこのエッサイの息子の中にいて、サムエルは、まさにその王を長男エリアブではないかと思ったということです。エリアブという名前の意味は、「神は父」という意味です。その名前からも、そしてその容姿も美しく、背の高さも申し分のない立派な青年であったその若者を、神様は王として選ばないということなのです。仕方なく、サムエルは次男に目を留めました、次男のアビナタブ、その名前の意味は「父は気高い」という意味です。まるで神様こそ、気高い方だとその信仰を言い表しているような名前でした。しかし、神様はこのアビナタブも次の王としてはお選びにならなったということになります。じゃあ三男のシャンマか、とサムエルは思いました。シャンマとは「うわさの人」という名前です。これは良いうわさです。エッサイには立派な息子さんがいるというそのうわさがあったのがこのシャンマであったのではないでしょうか。しかし、神様はこのシャンマさえも退けられたわけです。

 一体誰が次の王になるのか、サムエルは途方に暮れたのではないでしょうか。私たちは神様のみ心がどういうことであるのかということがわからなくなる時、本当に途方にくれるときがないでしょうか。神様が具体的に道を示しておられることもありますが、自分がたとえば、これが神様が示しておられる道ではないかと思って、そのことを選んでも、それが神様の御心の選びではなかった場合もあるわけです。サムエルが選んだ最初の王サウルはまさに理想の王のように思えました。サウルが若者であった時、背は高く、容姿は美しく、真にサウルこそが王にふさわしいと思って油注いだわけです。けれども、神様は今、そのサウルを退け、新しい王を選ばれる。しかも3人の立派な若者、いずれも王にふさわしい者であるにも関わらず、神様はどの若者も王には選ばないとおっしゃるわけです。普通ならば、神様のみ言葉、その御心、そしてご計画を疑いたくなるでしょう。しかし、聖書はこの選びの契約の中で、何よりも大切な事柄を示しているのです。それは「神様はすでにエッサイの息子の中に次の王を見いだされている」という決定的な事実です。つまりもう、神様はすでにふさわしいものを備えておられる、準備しておられるということなのです。選びというのは、すでにその前に神様の準備ということがある。私たちが救われる時、神様は私たちをその救いにふさわしいように準備されているということなのです。サムエルにはその神様の準備ということが見えません。それは私たちが本当に肉の目、目に見えることだけですべてを判断しているからです。しかし、神様は仰っています。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」神様の御心というものは、その深いご計画はこのように、私たちの思いを超えて示されるものなのです。

 私たちは神様のみ心がわからずに、途方にくれるときがあります。そして理不尽な出来事が次から次へと自分の人生においても、教会の歩みにおいても、起こってくるかもしれません。どうして神様はイサクをささげよというのか、どうして神様は新しい王を選べというのか、その理由がわからない時があるのです。しかし、神様は私たちのように深い考えもなく、思いつきでそのようなことを仰っているのではないのです。本当に私たちに道を示されるときには、その準備、備えを前もって、行っているということです、あるいはダビデを王として選ぶのも、すでにイスラエルの民の将来を配慮してそのことをされているということになるのです。それはまたイエス様の出来事を見てもそうなのです。イエス様がどうして十字架にかからなければならないのか、ある意味でそれは理不尽なことです。その理不尽さの中に十字架の出来事はあるわけです。じゃあ理不尽だから、イエス様は十字架の道を歩まないのか。決してそうではありません。神様はその十字架という出来事の先にイエス様の復活の出来事を備えられているということになるのです。そして、十字架が実はそれは私たちが理不尽だと思っているだけで、本当は理不尽なことではなくて、私たちの救いのために、私たちの罪がそこで裁かれるためにイエス様は十字架におかかりになるのです。

 私たちが救いに与る備えをする前から、神様は私たちを救いに選び出し、その備えをして下さるというのです。私たちが困らないように、私たちがその人生を最も良い方法と道で歩むことができるようにです。そのときには理不尽で、どうしてこんな事が起こるのかと思うことも、神様はその将来においてきっと私たちが人生を歩む上で、あるいは信仰生活を歩む上で、必要なこととしてそのことを示されるのだということです。そのことを「主に選ばれた王」であるダビデの出来事から見ることができます。その後、神様はイスラエルだけでなく、世界中の救いの出来事のために主イエス・キリストを選ばれました。私たちの目から見れば理不尽な十字架の出来事を通してキリストは真の王。メシアとしてのお姿をお示しになったのです。その出来事を思わされます。私たちはどんな時も、きっと神様は備えていて下さるそのことを信じて歩んでいくものとなりたいのです。

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11月21日主日礼拝説教音声データー

「主に選ばれる王」 サムエル記上16章1~13節

11月21日主日礼拝説教音声データーです。主の先立って示される恵みの幸いを覚えます。

2021年11月20日 (土)

11月14日主日礼拝説教要旨

「主は嘆くものを贖われる」 出エジプト記6章2~13節

 モーセというのはエジプトで奴隷状態にあったイスラエルを神様が与えると約束して下さったカナンの地まで、神の民であったイスラエルを導き出した、偉大な指導者だと言われています。けれども、しかし、挫折がなかったわけではありません。彼は出エジプト記2章を見てみますと、重労働をさせられている同胞であるイスラエルの民をみると、そのイスラエルの民を鞭打っているエジプト人を1人殺してしまったという罪を犯しているわけです。そしてエジプトから一時逃亡して生活を送っていました。さらにモーセは自分が神様に召されると4章10節でこのように神様に答えているのです。「それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」ここでも頑なに神様の召命を断っているモーセの姿を見ることができます。

 つまり案外、モーセというのは、全く完璧な人間、聖人君子ということではなくて、嘆きつぶやき、本当に神様の召命さえ、頑なに拒んできた人物であることが出エジプト記に記されている出来事からわかるのです。しかし、そうしたモーセのつぶやきとか嘆きとか、あるいは頑なさというのは、まさにその時のイスラエルの民の状況ということを現しているものでもあったわけです。2章23~25節では、はっきりとこのように示されていまして、「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」イスラエルの人々はその重労働のゆえに、うめき、叫んだというのです。そして神様に助けを求めたのです。神様はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブと約束されたその契約を思い出し、そして、神様はイスラエルの人々を心に留められたそのことが本日のみ言葉であるこの6章の出来事に繋がっていくのです。それは決して何もこの出エジプト記の出来事だけではありません。現実の私たちにもその嘆き、つぶやきそして人には決して言うことができない悩みということがあるわけです。そしてまた詩編142編2~3節ではそのような悩みについてはまさにこのように示されているのです。「声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。御前にわたしの悩みを注ぎ出し/御前に苦しみを訴えよう。」このような苦しみの時、嘆きのとき、私たちは神様に憐れみを求めることができる。御前に苦しみを訴えることができるとこの詩人は私たちに語っているわけです。

 その私たちの嘆きに対する1つの大いなる救い、その慰めがこの神様が贖って下さるという事柄にあることがわからないと今日のみ言葉の恵みということを十分にわかることができないのではないでしょうか。神様はモーセに向かってこのように仰っているわけです。出エジプト記6章5~7節、そこでは「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。」と示されているのです。神様はなにか一方的に私たちを救おうとされているわけではないのです。そこには、はっきりと私たちが本当に嘆いている、つぶやいている状況ということが必ずあるのだということです。人生はままらなず、世界は思うどおりの理想的な社会ではないと嘆いている。それは実は誰しもが思うことなのです。私たちはつぶやく、嘆く、しかし、神様はそのような私たちをいつも贖い、買い戻そうとしてくださっているということになるのです。元々この「贖い」という言葉は法律用語です。身代金を払って奴隷を自由にすることを意味していました。買い戻して自分のものとすることが贖いという言葉の意味なのです。奴隷であったものを買い戻して自由な身分とすること、そのようなことも「贖い」でした。そしてそのような事柄が転じて、「束縛や捕われの状態からの解放」を意味するようになるわけです。つまり私たちが何かについて嘆いたり、つぶやいたりするのは、そのことに束縛や、捕らわれがあるからだ、捕らわれたり、思い込んだりしているからだということがあるからではないでしょうか。

 そうして自分自身の思い込み、嘆きのうちに沈んでしまったらどうでしょうか。そのことが出エジプト記6章9節には示されていまして、そこでは「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」もうすっかりと希望をなくしてしまって、神様の御言葉、そして神様の御言葉を伝えるモーセの言葉も耳に入らないようなイスラエルの人々の姿がそこでは示されていくのです。そのような御言葉を聞けないような人々の姿を通して、じゃあ神様は私たち人間にこの「贖いの約束」を示すことをやめられたのかというと決してそうではないのです。むしろ、そのように嘆き、つぶやき、そしてみ言葉にさえ耳を塞いでしまう私たちの現実の姿を神様はよくご存知であり、なお神様は御心をしめすため、そして生きて働くご自身の救いの出来事、「贖いの約束」を示すために、イスラエルの人々をエジプトから約束の地カナンへと導き出されるのです。9節のようなイスラエルの民の現実を知りながら、なおモーセとアロンに13節において、神様はこのように仰っているのです。そこでは「主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。」なお神様は生きて働く神様の御業をイスラエルである神の民に現そうとされます。それは私たちも同じです。この世界にある新しい神の民としての教会も同じように現実の罪との戦いの中で、あるいは困難な伝道活動において、嘆き、苦しむときがあります。そしてつぶやき、一番その時に聞かなければならない「御言葉」をおろそかにしてしまうような時があるわけです。しかし、それでもなお神様は世界中にある神の民である教会の業を通して、生きて働く神様のそのみ業を現そうとされているのです。

 クリスマスの光というのは、またかつてエジプトの奴隷状態であった神の民、イスラエルを贖われた神の救いの光でもあるのです。神様は私たちの現実の嘆きをご存知です。私たちは嘆きます。そして弱さがあるのです。私たちはその弱さを神様に訴えるわけです。そして神様はその嘆き訴えを退けるお方ではありません。その嘆きを聞かれた上で本当に私たちにその救いのご計画をどんなことがあろうとも示して下さるということなのです。その幸いを覚えます。私たちは「贖い主」として私たちを買い戻し、罪の束縛から、嘆き、つぶやきから自由にして下さる神様の救いの出来事を覚えて、神の民として、神様に従い、礼拝し、神様に応答しながらまたクリスマスの喜びを迎えたいのです。

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11月14日主日礼拝説教音声データー

「主は嘆く者を贖われる」 出エジプト記6章2~13節

11月14日の主日礼拝説教音声データーです。

嘆き悲しむ、私たちの嘆きを聴いて下さる神様の贖いを信じて歩んでまいりましょう。

 

2021年11月13日 (土)

11月7日主日礼拝説教要旨

「朽ちることのない財産」 Ⅰペトロ1章3~9節

 とかく、何か気分が落ち込んでしまうような日々が、このコロナ禍の中で2年ばかり続いていますけれども、私たちが日常生活の中でも読むことのできる聖書が如何に人々に希望を与えているかということがこうした調査から示されます。それはまた本日のみ言葉にも示されており、私たちは主イエス・キリストが示された十字架の死とその後の復活の出来事によって、本当に死に勝利することのできる希望が語られていることがここでは示されています。これは歴史の中で、復活のキリストと出会った数多くの人の証言によっても示され、この手紙においてもかつて主イエス・キリストの弟子であったペトロが語っていることなのです。ペトロの手紙一1章3~4節ではこのように示されていまして、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」と語られているのです。キリストの復活の出来事によって、私たちは「生ける望み」を与えられている。それはキリストの復活の命に与ることのできる望みです。私たちは、そのことをこの聖徒の日の礼拝において、すでに信仰をもって、神様のみもとに召されている数多くの先達者たちによって示されています。

 そしてこうして、神様の命が示されていることは、まさに私たちは生きるためなのだということです。何か聖書が言っていること「生ける望み」とかキリストの復活の命というと、私たちが死んでから後それは与ることのできるものと考えていないでしょうか。そうではありません。このペトロの手紙においてもはっきりと3節におきまして、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」と示しています。つまりイエス様を救い主として信じて告白するとき、そしてそのしるしとして洗礼を受けるときに私たち人間はそこで神様によって全く新たにされるということなのです。そしてそこで本当にこの希望ある神様の命に与ることができる。新たな生ける望みをもつ存在として歩むことができるようになるということなのです。先程のイギリスでのリサーチがそのことを示しています。聖書を読むことによって、私たちは精神的に健康になり、孤独感から開放され、前向きに将来に対する希望を見出すことができるようになるということです。

 本日のみ言葉であるペトロの手紙が書かれた時代、数多くの迫害による殉教者がでました。またその苦しみに耐えられずにキリスト教の信仰を捨てる人々も数多く出たわけです。そのような苦しみ、試練の中で、まさに多くの人が絶望して「しかたがない」といって神様が私たちに与えてくださっているこの命の希望、生きる希望、生きる勇気を捨て去っていったわけです。そして、気落ちしている教会の人々に対して、一体何が大切なのか、神様が私たちにキリストの復活によって、私たちに生ける希望を与えてくださっているではないかということを語っているのです。キリストも数多くの苦しみを経てあのキリストの復活の出来事、復活の勝利を示されているわけです。だからあなたがたもいろいろな試練に悩む時、本当にその信仰が精錬されていくのです。そしてその精錬された信仰によって、私たちに与えられることが約束されている朽ちず、汚れず、しぼまない財産、生ける望みである神様の命に与ることができるのだという「生ける望み」その信仰の実りがあることが本日のみ言葉では語られているのではないでしょうか。

 この「生ける望み」「朽ちることのない財産」がまさに喜びとともに示されているということです。まもなくクリスマスですけれども、まさにクリスマスは世界中にこの喜びを届けています。聖書を読むときに私たちはこの喜びに満たされます。それはまさにペトロの手紙一1章8節で示されているように「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」ということなのです。私は牧師として、様々は方々の死の出来事に直面してきました。本当に男女問わず、また年齢も問わず、死因も問わず、様々な死に直面してきたわけです。そしてその死の出来事にかならず触れなくてはならない、それがその人を愛する人びとにとって、悲しい死であるときにはなおさら、悲しみが募ります。しかし、私は最後に死の出来事を悲しみのまま、絶望のまま、そして希望のないような出来事として語らないですんだのは、まさにこのイエス・キリストの救いの出来事があるからです。ペトロは直にそのキリストを見、キリストの復活の出来事を見て、証言していますが、その出来事を見ていなくても、そうした証言つまり新約聖書を通して示されている私たちも、まさに「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれる」ことができることを語っています。自分の死の苦しみがまたキリストの死の苦しみに与り、そしてこのキリストの復活の勝利に与ることだと知ってその死の出来事を迎える。「ありとあらゆるものに終わりの時」が来ますが、その終わりのときにこの「生ける望み」を与えられ、けっして朽ちることの財産を受け継ぐものとされていることが如何に大切なことか私は葬儀を司式するたびにそのことを覚えさせられました。

 言葉には決して言い表すことがないとしても、キリストによって救われた多くの人がこの「生ける望み」によって生きたことを私自身実感しています。そしてそれは私自身もそうであり、まさに聖書のみ言葉によって私は生かされ、生きる勇気を与えられていることを思わされるのです。「生ける望み」と本日のみ言葉で示されているこの神様からの祝福を、そしてそのプレゼントを私たちは本当に、ただキリストを信じる信仰によって受け取ることのできる恵みを思わされます。けれども現実の私たちはまた罪があり、弱く、すっかりこの望みを見失ってしまうかも知れません。しかし、そのようなときに私たちはまた祈りそして神様の助けを求めることができるのです。そして神様によって生かされていく喜びを知ることができるのです。本日のみ言葉の少し後、同じペトロの手紙一1章24~25節では、このように言われています。これは旧約聖書イザヤ書40章7~8節の引用の言葉でもあります。そこでは「こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」これが私たち人間の本質なのではないでしょうか。私たちの人生の輝き、華やかさはやがて草のように枯れ、花のように散るのです。しかし、私たちの人生というのはただそれだけのものではないのです。そこに「生ける望み」があると聖書は言っています。それはすでに信仰をもって召された先達たちがあずかった「生ける望み」であり「朽ちることのない財産」としての神様の命なのです。そしてこの命に生かされるときに、神様のみ言葉、その救い、その生命は永遠に変わることがないことを知ることができるのではないでしょうか。わたしたちもまた神様のみ言葉を示される中でこの「生ける望み」を示され、勇気をもって、試練の迫る時、苦しみ、困難さをおぼえるときも、「しかたがない」とあきらめるのではなくて希望を育てていく人生を神様とイエス様と共に歩むものでありたいのです。

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11月7日主日礼拝説教音声データー

「朽ちる事のない財産」 Ⅰペトロ1章3~9節

11月7日の主日礼拝説教音声データーです。キリストが私たちの未来に希望の光を与えてくださっていることを覚えて、前を向いて歩んでまいりましょう。

2021年11月 6日 (土)

10月31日主日礼拝説教要旨

「人間の原罪」 創世記4章1~10節

 小説家の森鴎外が「人生とは、自己弁護である」ということを言っています。確かに私たちの人生は、様々な言い訳というか、自分に納得できるような理由を付けて歩むものであることを思わされる時に、一つの人生の真実が、人生とは、自己弁護であるという言葉に示されているのではないかということを思わされるわけです。人間は祝福されたものとして創造された、それが神様の似姿、神の息によってつくされた人間の本質であることを前回の礼拝の中でその恵みとして示された私たちです。しかし、その私たちに罪の問題が入り込んできた。ということです。罪は、本当にその創造性において私たちは、他者との愛の中で、交わりの中で生きるものとなったということを話しましたが、罪はその全く逆で、他者との交わりを破壊するものであり、それは、私たちの人生を決して幸福にするものではないことが明らかです。それが、本日のみ言葉、創世記4章1~10節には示されていまして、ここでは人類最初の殺人ともいうべき、カインとアベルの出来事が示されていまして、カインは結果的にその罪により、弟であるアベルを殺してしまうようになるわけです。そのきっかけは、まさに自分がささげた献げ物が、退けられて、しかし、弟のアベルのささげた献げ物は、神様に受け入れたという出来事にあります。創世記4章6~7節によりますと「カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」」


 なぜ、神様が弟のささげものは受け入れられ、カインのささげものは受け入れられなかったのか。このことについて、イエス様は、まさに私たちの心を見る神様に献げ物をするときにどのような仕方でしなければならないのかをマタイによる福音書5章23~24節でこのようにおっしゃっています。そこでは「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」ここでは、まさにカインの弟アベルをみる思いがはっきりと示されています。それはこの神様にささげものを献げる前から、カインは弟アベルに対して反感をもっていたのではないでしょうか。あるいは、その生き方をうらやましく思い、嫉妬していた。そうした罪の思いがあり、神様ははっきりとこのとき兄であるカインの献げ物を退けられるのだということです。その時に、まさにカインは怒りに満たされてしまったということです。神様に顔を上げて見上げることのできないような怒りに満たされてしまった。そしてその怒りというのは神様に向くことはなかったわけです。その怒りはこのような思いをさせた弟アベルに向かって爆発することになります。8節では「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」とあるわけです。

 このように、元々はカインの嫉妬や罪から来る思いが殺人まで発展してしまったということになります。しかし、その元々のところの感情。人をうらやましく思ったり、それゆえに、その人のことを逆に反感をもって接してしまったりというのは、誰でもがもつ感情ではないでしょうか。それはまさに私たちが自分勝手な善悪を判断するからであり、それは、まさに私たち人間の本質的なのところにあるつまり「人間の原罪」から来る思いなのだということになるのではないでしょうか。「人生とは自己弁護である。」と森鴎外は言いました。まさに私たちは、人生を歩む上で様々な罪を犯してしまっている。そして私たちはそのことに耐えきれないために自己弁護し、結局はあの時仕方がなかったんだ、自分が弟も殺してしまったことも仕方がなかったんだということにして、まさにカインも自己弁護の中で生きていたのではないでしょうか。

つまり神様は、何かカインのことがアベルに比べて嫌いだったとか憎かったとか、そんな人間的な感情でささげものを受け入れられなかったわけではないのです。むしろおそらくはその心を見られて、愛によって弟アベルとの交わりを回復してほしいと思っていたのではないでしょうか。だからこそ「弟のアベルはどこに行ったのか?」をカインに尋ねられたのです。怒りに満たされるのではなく、愛によって自分を反省したならば、交わりは回復して、神様にアベルの居場所を言われても、殺人などはおこらずに、アベルの居場所を素直に答えられたことでしょう。

 そのようなカインに神様は、はっきりとこのように仰っています。創世記4章10~11節「主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」」神様は私たち人間をほっておかれるということはありません。良いことは良いこととして褒められ、そして罪は正しくその罪を裁かれるということです。この10節の「何ということをしたのか。」という言葉の前に神様はカインに「聞け」と仰っています。殺してしまったアベルの言葉を聞けと仰っているのです。自分の怒り、自分の憤りに満たされてしまったカインはもはやアベル言葉を聞くことができなくなっていました。そのように自分中心の思いに満たされてしまうと、他の人の思い、他の人の言葉を聞くことができなくなってしまうというのです。しかし、そのことによってアベルの血は流された、そしてカインはその裁きを受けるものとなってしまった。作物の実りというのは祝福ですが、もはやアベルの血のゆえに、決してカインにはその実りをもたらすことなく、カインはこの地上をさすらい罪の償いを生涯しなければならない。それほどにしてはならない誤ちをあなたは犯したのだということなのです。

私たちが自己中心的な思い、罪の思いに満たされてしまった時に神様のみ言葉を聞くことは本当に良いことであると思います。そのときに私たちはカインのように自分自身は本当に自己弁護に満たされて、自分中心の歩みをしていたかを知らされるのです。「何ということをしたのか。」という神様の前に明らかに罪であるという歩みをしてしまっている自分であることに気付かされます。カインが嘆くように神様が「わたしから御顔を隠されて」しまっても仕方ありません。しかし、そのようなときにも神様の御顔を仰ぎ見ようとする時に、神様はカインを悔い改めへと導き、そしてカインを憐れみ、慰められるのです。「主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」この時神様は、決してカインから御顔を隠されるということをなさいませんでした。それどころかカインが誰からも殺されないように、カインにしるしを付けられたというのです。これは神様の赦しのしるしであり、神様が生きなさいというしるしであり、そして神様がまさに生き方の方向、それは的外れに生きるのではなく、神様に従って生きなさいというしるしなのだということなのです。ある人はまさに新約聖書から、神様はここでカインに十字のしるしを付けられて、その罪を罰せられたのだと語っていますが、本当にそうだと思うのです。

 「キリストの足音」という本を書いた黒田平治という人がその中でこのようなことをいっています。「ゆえにわたしたちは罪を犯さないことによって罪に勝つことは不可能である。すでに犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をゆだねて安んじていよう。そして勝利をいただこう。これ以外に罪に勝つ方法はないからである。」神様は、黒田平治さんが言っているように、この私達人間の罪の現実に対して、その罪に打ち勝つのできる方法、そして、その罪を克服して勝利を得る方法を示してくださいました。それがイエス様の十字架の救いの出来事であるわけです。私たち信仰者はまさにカインのようにひたいにその十字のしるしを付けられて罪赦されたものであるわけです。この救済史を通して示される罪の現実とそのことを解決してくださる十字架の恵みがどんなに大きなものであるかを長い歴史を通して示されています。クリスマスはそのように私たち人間に対する神様の大きな恵みの賜物であり祝福であるのです。なぜならばそこに私たちが原罪を克服する大きな勝利が示されているからです。

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10月31日主日礼拝説教音声データー

「人間の原罪」 創世記4章1~10節

10月31日主日礼拝説教音声データーです。私たちの罪が赦されている十字架の恵みを覚えて歩んでいきましょう。

2021年10月29日 (金)

10月24日主日礼拝説教要旨

「神による創造」 創世記2章4~25節

 私たち日本には季節があり、そのような秩序というか、春には春の意味、新生と言いますか、すべての生き物が、植物が芽吹くそのような季節があり、また夏は、一気にその命が成長していく、そして秋は成熟し、そして冬には、その命が成長を終え、眠りについてくという様子を見ることができるのは、本当に、神様が創られた世界には、一定の法則というか、そのエネルギーに満ち溢れた祝福された世界であることを思わされます。私たちの礼拝も、降誕前の季節を迎えました。この時は、そのように神様の救済の歴史、救いの歴史を思わされ、その神様の救いの歴史のまさに中心点、その救いの出来事が最も大切なこととして、示されたのが、クリスマスであり、救い主であるイエス様がこの世界に遣わされたことであるということを思わされるわけです。そしてその神様の救いの歴史、救済史を示される中で、最初に思わされるのが、この神様によるこの世界の創造の出来事ということになるのです。

 創世記は、この世界が神様に創られた世界であることの1つの意味をこのように示しています。それは創世記1章1~3節のところで、はっきりとこのように示されているからです。そこでは「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」ここで示されているのは、まさに神様がこの世界をどのように創造されたのかということです。神様がいなかったら、この世界はそこには何があるのかといえば、何もないのです。地は混沌である、つまり、この世界というのは、形もないし、空しい世界なのだということです。そしてだた暗闇だけがあるそのような世界であるということです「闇が深淵の面にあり」という言葉が、そのような暗闇が何層にも広がっているような深い深淵、漆黒の闇を現すような言葉です。しかし、神様はその世界につまり私たちの世界に「光あれ」とおっしゃりそしておっしゃっただけではなくて、実際にその光をもたらして下さったのだということになるのです。神様による創造というのは、そのように明らかにこの世界に秩序ということをもたらしています。確かに闇というのはこの世界にありますが、神様は光と闇という風にはっきりとそれこそ最初に日本には四季があるという話をしましたけれども、何がなんだかわからないような世界、つまり混沌としたものをこの世界にもたらしたのではなく、この世界を秩序あるものとして、さらにそのことを「良しとされたのだ」ということなのです。
 そうした1つ1つの創造の過程を良しとしていくようなこと、それは本日のみ言葉の2章以下では語られていませんが、その背後には、そうした神様のみ心ということがあるのだと思います。まず私達人間の創造についてはこのように示されています。創世記2章7節そこでは「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」ここでは丁寧に、その人間の本質ということが語られています。第一に私たちはとてもはかないものである所詮は、土の塵にすぎない。つまりこの肉体というのは、滅びゆく、塵にすぎないということです。第二に、にもかかわらず、神様は他の被造物と違って、人間には、神様の息それは命の息この息とはまた霊というように訳すことができます。そのように神様の命の息を吹き込まれて「生きるもの」とされたということです。この「生きる」とはまさに神様のように考えたり、創造性をもって物を作り出したり、そして、働いたりできるものとして神様は人間を特別に聖書でいう生きるものとされたのだということです。さて神様がなぜ人間を創造されたのか、それはまさに神様のご計画であるとしか、いえません。

 神様がいない世界を生きることは、無意味な世界をいきることです。「光あれ」と言われたその神様の光がないのです。あるいは闇さえもないのかもしれません、「形なく、むなしい」混沌とした世界が広がっているだけです。神様はしかし、そのような私たちに1つ1つの意味を見出していき、この世界の意味をその秩序を1つ1つ形つくりそして今にいたっているわけです。それは本日のみ言葉の後半で語られる性別の創造、男性、女性の創造という部分でもその意味が示されています。そもそも性別を創造されるときに神様はこのように示されています。創世記2章18節「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」これはすなわち私たち人間の社会性とか関係性ということを現しています。私たちは男性、女性を問わず、そのことは交わり、関係の中で生きるものなのだということです。それはまさに神様を礼拝するということもそうであり、男女でなくても、神様とのことと思っても、愛し、愛されるという関係があってこそ、人は初めて生きるものとなるのだということです。それは親と子という場合もそうでしょう。「人が独りでいる」場合どうなるのか、そこではまさに先程の「生の無意味さ」の問題が出てくるのでないでしょうか。孤独はまさに先程の世界などは意味がない世界で、自分が生きているのも無意味なのだというような哲学をももたらしていきます。

 それはすべてを「良しとされた」神様の創造の意味に反していくのです。神様がもたされたのは、「光」であって「闇」ではありません。それは「命」であって、「滅び」ではないのです。そのために生きる意味を見出していくために、神様は「人が独りでは良くない」とおっしゃり、そして自分と異なる存在、他者という存在を創造された、しかも、自分の大切な一部、愛するものパートナーと認識できるように、あばらの骨の一部を抜き取って創造されたのだと2章21節では示されていくのです。つまり私たちが本当に人間らしく、人として生きていくためには、まず神様を覚える、そして礼拝していくことが大切であり、それは他の人との交わりの中で行っていくことが何よりも大切なことであることがその創造の意味の深い意味として示されているのではないでしょうか。神様は本来私たちをその祝福の中に、そして命の中に、そして神様との交わりの中に招いてくださっておられるということなのです。そのことのない人生は、神様との交わりが見いだせない人生は、実は「空しく、混沌とした」世界の中で生きる人生、意味のないような、意味を見いだせないような世界の中で生きるような人生なのだということではないでしょうか。その世界に、神様は「光」あれとおっしゃってくださり、クリスマスの光、御子イエス・キリストの空しさ、混沌そして私達人間の暗闇に光をもたらしていく、命をもたらす光を示してくださっているのです。その幸いを覚えます。そのような神様の1つ1つの救いの御業を示されていき、そのことに感謝するものでありたいのです。

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10月24日主日礼拝音声データー

「神による創造」 創世記2章4~25節

10月24日主日礼拝音声データーです。

神の救いの歴史の中で生かされていることに感謝して歩んでまいりましょう。

2021年10月22日 (金)

10月17日主日礼拝説教要旨

「あなたの涙はぬぐわれる」 ヨハネの黙示録7章9~17節

 本日、説教されるべきみ言葉である「ヨハネの黙示録」はまさに「黙示文学」と言われているものの1つの書物ということになります。このような黙示文学ということが書かれる背景には、1つキリスト教徒に対する大きな迫害ということがありました。ローマ帝国時代、たしかにそれは「ローマの平和」「パックス・ロマナ」と言われているように、それまでの内覧とか内戦の時代が終わって、表面的には、ローマ帝国内に入れば、人々は平和に暮らせるように思えました。しかし、それは表面的にはということです。大きな災害があったり、またまさに大きな宗教的な迫害ということが何度も起こり、特に、キリスト教が国教、国の宗教として認められるまでの、キリスト教徒に対する迫害は本当にひどいものがあり、何千人、何万人のクリスチャンがそうした迫害によって命を落としたわけです。そのような中で「黙示録」は、書かれました。そしてそのような殉教してしまったクリスチャンは一体どうなるのか?そしてそのようなことをするローマ帝国はやがてどうなるのかを明らかにするために、復活のキリスト自らが、この長老と呼ばれている教会の指導者であるヨハネに様々な幻を見せたと言われているのがこの黙示録という書物であるわけです。

 ですから、この黙示録というのは、基本的に何が預言の書として世の中では扱われていますが、私はそうではないと思います。特に、本日のみ言葉にそのことが明確に示されていますけれども、そこでは白い衣をきた大勢の人々が神様を礼拝しているその様子が示されています。ヨハネの黙示録7章9~10節そこでは「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」と示されています。この時代、イエス様とか救い主イエス・キリストとにかくキリストという言葉さえ、いうことがはばかられているような時代です。ですのでイエス様のことは、あの祭壇に生贄をささげる小羊として、表現するようになりました。ですので、「救いは、玉座に座っておられる、神と、小羊この子羊とはキリストのことです、のものである」とはっきりと告白してる民が、あらゆる国民、種族、言葉の違う民の中から集まったとは、世界中で、イエス様の救い、神様の救いをおぼえる大勢の民が集まって礼拝しているということになるのです。

 本日のみ言葉、ヨハネの黙示録7章14節では、この白い衣をきた大勢の人々の真相が明らかにされています。そこでは「そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」とはっきりと「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」と示されています。私たちの苦難が、悲しみが、キリストを通して、キリストの十字架の血によって清められ、清くされるというのです。すべてのことが清くされていく、つまり彼らは、世界中でキリストのために苦しみを受けた殉教者だというのです。そしてその苦難は、キリストの血によって清められる、そのしるしを受けたものということになります。このしるしについて、黙示録では封印まさにしるしをおされたものとして、たとえば、本日のみ言葉の少し6章などには示されていますし、それこそ、信仰者、クリスチャンとは、この小羊つまりキリストによってしるしを受けたもの、その救いに与ったものということができるのではないでしょうか。さらに詩編56編9節では、このようなみ言葉が示されています。そこでは、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」と示されていくわけです。

 私たちが小羊の血によって、キリストのあの十字架の血によって救われるのは、このためです。イエス様の救いに与ることで、イエス様こそが私たちと共に悲しみを共有して下さることを知るのです。それはこの詩編の56編の作者が明らかにしているように神様によって、わたしのすべての嘆きということが悲しみということが、それは個人的な、人間的なそのような嘆きということが悲しみということが、しるしとして、記録、レコードされたものとして覚えられているということです。すべての悲しみがそして苦難や試練、もちろん喜びも、神様とそしてイエス・キリストに覚えられているのです。「あなたの記録に/それが載っているではありませんか。」神様の記録に、しるしに封印に、刻印にそのことがすでに覚えられているということなのです。だからキリストは私たちのすべての苦しみを悲しみをそして人間の悲惨さ、またはその罪の本質から私たちを救い、引き上げて下さり、白い衣を着せ、神の民の一員として下さるということなのです。
 そして最後にでは、そのキリストの慰めということが、一体どこで語られていくのかということです。そのことも慰めの書である黙示録には、示されています。それが実は、この礼拝の場所であるわけです。それが私たちクリスチャンの葬儀ということも礼拝形式によって行われることの根拠です。それは本日のみ言葉に示されているキリストによって迫害された大勢の人々が、国籍、言葉、民族関係なしに1つところに集められて、神と小羊であるキリストを礼拝しているように、実はこの礼拝の場所こそが、キリストの大いなる慰めが語られる場所であるということなのです。11節の後半から12節ではこのようにその様子が示されていまして、そこでははっきりと「玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」共に神様を賛美すること、救い主であるイエス・キリストの救いをおぼえることによって、このわたしのすべてをキリストは、神様はご存知であり、イエス様の十字架の血によって、また復活の出来事によって私を清めてくださり、神様の命に与るのにふさわしいものとしてくださることを礼拝を通して、礼拝で読まれる聖書のみ言葉を通して教えられ、共にその救いをそして神様の計り知ることのできない慰めの出来事と知ることができるのではないでしょうか。そしてその時にまさに17節のイエス様の救いの出来事、よい牧者、羊飼いとして、神さまの命の水の泉へと導いて下さるそのイエス様のお姿の意味がわかってくるのではないでしょうか。イエス様こそが、17節で示されているように「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」大きな苦難を通ってきた者の目から涙をことごとく、キリストはぬぐってくださるのです。悲しむものは、神様によって慰められるのです。黙示録は私たちの慰めの源がそして本当の救いの出来事がどこにあるのかをはっきりと、その迫害の中で語っています。キリストは私たちのすべてを覚えていて下さって、その血によって清めてくださっています。そして慰め、新しい命とまことの神様によっ与えられる平和、平安、そして命の水の泉へと私たちを導いてくださっているのです。

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10月17日主日礼拝説教音声データー

「あなたの涙はぬぐわれる」 ヨハネの黙示録7章9~17節

10月17日の主日礼拝説教音声データーです。涙をぬぐわれるキリストの慰めに感謝して歩みましょう。

2021年10月11日 (月)

10月10日主日礼拝説教要旨

「神の愛によって生きること」 ローマの信徒への手紙13章1~10節

 本日のみ言葉、ローマの信徒への手紙13章1節には、このようなみ言葉が示されています。そこでは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」このようなみ言葉を聞くと、私たちはすぐにローマの信徒への手紙を記したパウロは権威主義なのかということを考えてしまいます。そして、私はそのような権威主義には、反対だとして、み言葉の真意を理解することができなくなってしまうでしょう。ですから、本日のみ言葉に示されている事柄は何かということを学ぶためにも1つ1つの事柄を丁寧にみていきたいと思うのです。まず私たちの誰もが思うことです、そしてそれはパウロ自身が考えていることですけれども、この世の制度とか秩序というのは、それ自体が何か悪いものであったり、それこそ、パウロが言っているように、この世の制度や秩序というのは、「悪を行う者には怒りをもって報いる」と13章4節で示されているように、まさに社会悪、犯罪を犯すものにはやはり無政府状態のような制度のない状態ではなくて、しっかりとした日本では民主主義の法体制の元で裁かれなければならないということです。

 それが権威とか制度の1つの仕事であって、もしそのような正しい秩序の執行ということがないとそれは当然、それは正しい権威者でもなく、政治的な指導者でもないということになるでしょう。そうした正義とか、悪を行う者には怒りを持って報いるということは、やはり神様の義、正義ということが源になっています。だから私たちは5節で示されていますように、「だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。」と良心をもってこの世の制度や権威に従っていくことが求められているということなのです。良心とは何か、良心とは神様が私たちに与えられた良いこと、悪いことを判断する心です。パウロはここで、この世の制度や権威ということにまず権威主義に無批判的に、つまり何も考えないで従えと言っているわけではありません。私たちは判断する心、つまり良心ということがあるのですから、良心をもってそのことに判断しなければ、ならないということです。そして、その良心とは、神様が与えて下さった善悪を判断する心です。そしてその良心によって、パウロはここですべての権威というのは、「神に立てられる」と示されています。

 ということは、神様によって良しとされないような制度、良心に従ってもそのことが道徳的にも、人道的にも制度とはいえないし、権威ともいえないような社会制度、たとえば独裁政治のようなものは、そもそもここでパウロによってそれは権威とは考えられていないということではないでしょうか。なぜならばそれは神によって立てられている制度ではなくて、独裁を行っている独裁者とか、あるいは指導体制に都合のよい制度ではあり社会であるからです。聖書で権威ということが語られていく場合、それはイスラエル王国もそうですけれども、まさにそこには真の権威者がおられるということを前提にしています。それは聖書全体が指し示していることと同じであります。権威とは、何かということそれは権威についても本来それはもともとは神様のものであって、神様こそが唯一の権威者であって、地上の為政者、政治を司るものは、それを代行しているにすぎないということです。本日のみ言葉、ローマの信徒への手紙13章1節には、このようなみ言葉が示されています。そこでは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」このようなみ言葉を聞くと、私たちはすぐにローマの信徒への手紙を記したパウロは権威主義なのかということを考えてしまいます。そして、私はそのような権威主義には、反対だとして、み言葉の真意を理解することができなくなってしまうでしょう。ですから、本日のみ言葉に示されている事柄は何かということを学ぶためにも1つ1つの事柄を丁寧にみていきたいと思うのです。まず私たちの誰もが思うことです、そしてそれはパウロ自身が考えていることですけれども、この世の制度とか秩序というのは、それ自体が何か悪いものであったり、それこそ、パウロが言っているように、この世の制度や秩序というのは、「悪を行う者には怒りをもって報いる」と13章4節で示されているように、まさに社会悪、犯罪を犯すものにはやはり無政府状態のような制度のない状態ではなくて、しっかりとした日本では民主主義の法体制の元で裁かれなければならないということです。

 それが権威とか制度の1つの仕事であって、もしそのような正しい秩序の執行ということがないとそれは当然、それは正しい権威者でもなく、政治的な指導者でもないということになるでしょう。そうした正義とか、悪を行う者には怒りを持って報いるということは、やはり神様の義、正義ということが源になっています。だから私たちは5節で示されていますように、「だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。」と良心をもってこの世の制度や権威に従っていくことが求められているということなのです。良心とは何か、良心とは神様が私たちに与えられた良いこと、悪いことを判断する心です。パウロはここで、この世の制度や権威ということにまず権威主義に無批判的に、つまり何も考えないで従えと言っているわけではありません。私たちは判断する心、つまり良心ということがあるのですから、良心をもってそのことに判断しなければ、ならないということです。そして、その良心とは、神様が与えて下さった善悪を判断する心です。そしてその良心によって、パウロはここですべての権威というのは、「神に立てられる」と示されています。

 では私たちが、そして本来ならば、権威を司る人びとも従わなければならない神様の権威とはなんでしょうか。パウロはそのことを明らかにしています。それはそもそも、この権威とは何かという議論が次のみ言葉によってサンドイッチ、つまり挟まれているからです。まずローマの信徒への手紙12章9~10節にはこのようなみ言葉が示されています。そこでは「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」ここでは、神さまの愛についての議論が示されているのです。そして神様の愛はかならず善をもたらすものであることを語っているのです。12章21節そこでははっきりと「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と語られているのです。神さまの愛こそは悪に打ち勝っていく大きな力であることをここでは語っています。そしてそれは本日のみ言葉の後半部分においてもそうです。ローマの信徒への手紙13章8節ではこのように語られていきます。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」律法とは当時のこの世界、特にイスラエルの人びとにとっては法律でもありました。そしてここでも神の愛についての事柄が語られていて、神の愛を示すことは、法律を全うしている、つまり神の愛は律法を、その法律を超えたところにあることをしめしているのです。そして最後にそのことは本日のみ言葉の結論部分、10節において示されていきまして、「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」と語られています。明らかにこれは本日のみ言葉の前半部分を受けています。つまり神の愛によって生きるものは、悪を行わないということです。3節では神様の前に良しとされること、「善を行いなさい」と勧めされていました。「神の愛によって生きる」ことによって私たちは何が善であって、何が悪であるかはっきりと判断することができるようになるということです。そして「隣人を自分のように愛しなさい」とイエス様によって示されている私たちは、神様の目に悪とうつることこそ、罪であることを知っているということなのです。つまり権威について何であるかということを考える時、それは私たちに愛を示された神様の権威であるということをこうした議論によってパウロは明らかにしているのです。愛ということが実はこの世の権威を超えたところにある神様の権威の本質であることをパウロは明らかにしています。

 パウロは、その愛という場合、そこでは神様の愛を考えており、それはイエス様の救いの出来事、十字架と復活の出来事に示されている愛であるということです。私たちは権威に従うべきであるとパウロは言います。それはまた何よりも神様の示された真の権威であり、イエス様の示された本当の権威、つまり「深き憐れみ」ということであって、真の権威に従うということは、私たち信仰者というは、どのような時代、制度が変わっても、「神様の愛によって生きる」ということが求めされているということではないでしょうか。イエス様が、その当時のローマ帝国の支配下であるユダヤの国で何を現されたのかそれは磯部さんの本によっても明らかなように、そしてそれは聖書によってもしめされているように「神の愛」でありました。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」愛は律法を全うすると最後にパウロは言っています。私たちも神様の愛によって、そして何よりもキリストが示してくださったその愛に従っていき、この世界のために、隣人のために、そして社会のために祈るものでありたいのです。

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10月10日主日礼拝説教音声データー

「神の愛によって生きること」 ローマの信徒への手紙13章1~10節

10月10日主日礼拝説教音声データーです。神さまの愛によって生かされ、歩んでいきましょう。

2021年10月 8日 (金)

10月3日主日礼拝説教要旨

「信仰の生涯を生きる」 ヘブライ人への手紙11章17~31節

 最初にヘブライ人への手紙11章17節では、このように示されていまして、そこでは「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。」と神様が目の前にいるように、まさに独り子であるイサクをアブラハムは神様にささげようとしたけれども、そこには確かな確証ということがあり、その確証とは、19節で示されていますように「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」とすべてをご存知である神の真実を知っているアブラハムは、このヘブライ書によれば、どのような形であれ、神様が息子イサクをかならず返して下さることを知っていたということです。それは信仰によって子孫を星の数のように増やすという約束を信じて従って言ったからでした。そしてその神様は、人を死者の中から生き返らすこともおできになる神であることをここで語っているのです。そしてその信仰には、まさにすべてをご存知である神様は過去、現在、未来をも私たちを守り、導き、養って下さるという確証があるということです。アブラハムはそのとおり、神様への信仰によって守られ、信仰の父と言われました。

 そのように信仰とは、何かということをヘブライ人への手紙11章1節ではその本質についての事柄が語られています。そこでは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」この言葉にはかならず神様によってとかあるいはイエス様によってという言葉がつくと思います。信仰とは、イエス様によって望んでいる事柄を確信するということ、神様によって望んでいる事柄を確信するということです。事実モーセは、元々はファラオつまりエジプトの王の子供として育てられましたが、ヘブライ人への手紙11章24~25節で語られているように「はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。」と望んでいる事柄を確信していたのだということです。モーセが望んでいた事柄とはまさに神様のご計画であり、それは御子イエス・キリストのみ旨でもあるとヘブライ書では示されています。それはどのような計画であったか27節ではこのように示されています。そこを見ていただきますと「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」このことは旧約聖書の出エジプト記を見れば、明らかなのですけれども、モーセは、神様が神の民を必ず解放して下さる、贖い出してくださることを確信し、約束の地であるカナン地方と導いて下さるということをまさに神様によってしめされていたわけです。約束の地で暮らすことは、まさにエジプトの財宝にもはるかにまさる富であり、そのことに目を向けて、エジプトの王子であるよりかは神の民の指導者として、そのことを選び取ったということになるのです。そして、アブラハムやモーセに何か救われるべき資格があったのかというと決してそうではないということです。神様は、何か私たちを資格によって選び出しているわけではないということです。ただ望んでいる事柄を確証している私たちの信仰によって神様は私たちを導いておられるということではないでしょうか。信仰とは、信頼を呼び起こすもの確証によって成り立っています。確証とはまさに真実であり、事実です。主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架におかかりになり死んで下さった。そして三日目に復活され、弟子たちに現れたというこの事実こそが、私たちに確証を、そして信頼を呼び起こすものとして示されているわけです。そして何よりもアブラハムがモーセが信じた神様の私たちに対するお導きがあり、恵みがあり、愛があるわけです。それは目には見えないものですけれども確証つまりしっかりとしたお墨付きの保証書であるわけです。そして信仰者の歩み、その人生の歩みとは確かに私の人生は神様の導きによって豊かに守られていることをその1つ1つを見えない事実として確認することではないでしょうか。それは旧約聖書の具体的な先達たちの証言を借りなくても、私たち1人1人に示されていることではないでしょうか。そのことを覚えて私たちはしっかりとまた神様への、主イエス・キリストへの信仰、信頼によって、神様が示して下さる御言葉の真実を示されていきたいのです。

 たとえ暴風があったとしても、それは主なる神の鍛錬としてそのことに気落ちしてはならないことを次の12章で語っているわけです。そしてそれはまさに主イエス・キリストご自身がそうであり、主イエスはその十字架の死に至るまで神様に対してそのことを思いつつ、本日のみ言葉の少し後、ヘブライ人への手紙12章1~2節前半ではこのように語られていくのです。そのみ言葉をみていきますと、そこでは「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」これが私たちの信仰の歩みであることをヘブライ人への手紙では示されているのです。そのためにおびただしい証人、私たちの信仰の先達者たちがそのことを証ししてきたではないかというのです。すべての重荷。絡みつく罪ではなく、救いの真理をしっかりと見据えて、イエス様が示してくださっている十字架と復活の救いの出来事、神様の永遠の命に与ることのできるその確かな保証をしっかりと見据えて、歩むべきだとヘブライ人への手紙では示されているのです。それは「自分に定められている競走である」とも言われています。決して平坦な道を歩むようなものではないことがここでは示されています。人生とはそのようなものかもしれません。平凡な人生に見える人でも、詳しくその歩みを聞けば、まさに誰一人として平凡に過ごしてきた人生などないのです。「忍耐」ということを一度や二度ではない、数多く求めされるのがまさに私たちの人生であります。しかし、主イエス・キリストはまさに私たちにとって忍耐できないような苦しみ、悲しみを経験され、そしてあの十字架の出来事へと向かわれたのです。アブラハムであっても、一人息子のイサクを殺さなくてはならないと思ったときの苦しみは私たちが味わうことのできない苦しみであったろうし、エジプトの王子の身分を捨てるという決断をしたモーセにも、まさに様々な苦しみがあり、「忍耐」しなければならないことがあったのだということです。

 信仰の完成者はイエス様であるとヘブライ人への手紙では示されています。私たちがたとえ、失望しそうになっても、そして忍耐できないような苦しみの中で悲しみの中で、つぶやくとしても、イエス様が共にいて私たちを導いて下さる時に、その船が羅針盤によって決して目的地を見失わないように、イエス様が導いてくださるのです。イエス様が私たちの人生の羅針盤の役割をしてくださっています。それは本日示されているアブラハムがイサクがヤコブがモーセがそうであったようにです。そのことを覚えて、私たちは何よりも信仰によって、目には見えないこと、望んでいる救いの出来事が確かに示されていること確信し、目には見えない救いの出来事、神様の恵みが私たちに示されていることを1つ1つ確認して神様に感謝をもってまたその救いを証しするものでありたいのです。

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10月3日主日礼拝説教音声データー

「信仰の生涯を生きる」 ヘブライ人への手紙11章17~30節

10月3日の主日礼拝説教音声データーです。信仰による生涯を歩んでいきましょう

 

2021年10月 2日 (土)

9月26日主日礼拝説教要旨

「ぶどう園と農夫(労働者)のたとえ」 マタイ20章1~16節

 マタイによる福音書には2つのぶどう園に関するたとえが示されています。1つ目は、このマタイによる福音書にしか出てこない本日のみ言葉である、マタイによる福音書20章1~16節でイエス様が語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」です。2つを区別するために、こちらは「ぶどう園と労働者のたとえ」とも言われたりします。そしてもう1つは、こちらはマルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも出てくる、「ぶどう園と農夫のたとえ」マタイによる福音書21章33~46節で語られている、この2つのぶどう園のたとえということがイエス様によって語られているのです。そしてなぜえイエス様は、このように多くぶどう園ということあるいはぶどうというたとえをお語りになるのかということです。一つはなんといっても親しみやすさ、身近なものということではないでしょうか。イエス様が住んでおられるパレスチナは、古代から今もかわらず、3つのものの有名な産地です。1つはオリーブ油、そしてもう1つは麦です。そして最後はぶどうです。ぶどう及びぶどう酒の産地であり、パレスチナ産のワインは今でも人気のある有名なワインです。ですから、人々の身近にあって、だれでもすぐに想像できるもの、それがこの「ぶどう園」と「ぶどう」であって、まさにそれは豊かなもの、豊かさの象徴であったわけです。けれどもイエス様は何かそれだけで、ぶどうということをたとえにおいて、多様したわけではありません。それは旧約聖書から実はぶどうということがあるたとえを示しているからです。

 それは創世記にさかのぼります。アダムとエバは知恵の実を蛇にそそのかされて食べてしまいました。知恵の実というのは、リンゴのことだと言われ、絵画においても知恵の実というとリンゴが描かれてることが多いです。それはエデンの園の中央に生えていたと言われています。それが善悪を知る木です。その他にエデンの園には沢山の木が生えていました。神様は、人間が勝手に善悪を判断するようになると、神様のような存在になりたいと思うのではないか、そのことを大変心配され、この上、命の木の実を食べると永遠に生きるものとなってしまうことを大変に心配されました。創られた存在である私たちが、そのように神様と同じようなものであると思うことはまさに「的外れ」であり罪です。自分を絶対化し、自分を神様のような存在と思うことは傲慢以外のなにものでもないからです。そこでアダムとエバを楽園から追放されました。創世記3章24節では「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」この命の木ということが絵画においても、実はぶどうの木として描かれることが多いのです。つまり神様の命が象徴されるそのような木としてぶどうの木が示され、そのぶどうが豊かに実っている、ぶどう畑、ぶどう園は、まさに神の国の象徴としてあるいは、この神の国がこの地上に示されたのが、イスラエルであり、神の民ですから、ぶどう園は、まさにユダヤの国そのものの象徴として語られることが多かったのです。その中心にはまさに神様の救いがあり、神様の命があって、神様の恵みによって生かされている、それがこのぶどう園に生きる人々なのではないでしょうか。

 しかし、イエス様はこのぶどう園において、つまりそれは楽園なのですけれども、その楽園における現実において、いつも、人間の罪の現実ということを語ります。そのことが、もう一つのぶどう園と農夫のたとえでは、まさにそのぶどう園を自分の物としてしまおうとする、農夫たちの罪の現実ということが示されていました。そしてこのぶどう園の労働者のたとえでは、朝早くから働いていた労働者、農夫が、5時から働く労働者と同じ賃金であることに文句を言っています。マタイによる福音書20章10~12節ではこのように示されているのです。そこでは「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」つまり、この朝から働いた労働者というのは、主人つまり神様との契約、約束において不満を言っているということなのです。彼らはたしかに一デナリオンで働くことを約束したのです。それは一日の労働の対価としては十分なものでした。しかし、5時から働いたものと同じ金額、同じ恵みであることを知ると、本当にそのことに不平を言いだしたのです。朝から働いた私たちと5時から働いた者の恵みが、賃金が全く同じなのか。確かに時給いくらという話になるとおかしなことになってしまいます。しかし、これはまさに神の国、福音のために働く者のたとえが、農夫たちであり、労働者なのです。朝からとはまさに若いときから洗礼を受けてクリスチャンとなったということと同じです。その人と年老いて、クリスチャンとなった人とまさに恵みは同じことであるとイエス様は仰っているわけです。つまり、そこでもう若くから恵みに与っている人は、その恵みが当たり前のことであり、1デナリオンもらうのは当たり前で、もっと貰えるに違いないと思っているということなのです。そうではありません。神様の恵み、その救い、そして神様の命に与り、新しく生き直すことのその意味は、神の国に与る、この地上でその救いに入れられることは若くそのことに与ったとしても、年をとってから与ったとしてもその恵みが変わることはないのです。そして恵みが変わらないどころか、自分は神様のために働いているのに、とまさに律法主義的な考え、その人の行いによって人を評価してしまうようになると、つまりこの世の価値観、働けるものが、報酬が多いのだと考えてしまうと、かえって自分が与っている恵みに不満をもつようになり、神様に不平をいってしまうものとなるとイエス様はここで私たちに忠告しているのです。神の国のために働くということはそういうことではないのだというのです。神の国、その救いに与るものの恵みが平等であり、神様はその日1日暮らすだけの十分なものを私たちに与えていて下さるというのです。そのことにまず私たちが感謝しなくてはならないことをイエス様はこのたとえ話で私たちに教え、示しているのでないでしょうか。

 神様の救いを証しする人生に招かれた人々を神様は本当に喜ばれるということなのです。私たちで言えば、病床洗礼に招かれた人々、何も神様のために働いていないでないかと思うかも知れません。それは行い主義、律法主義的な価値観、あるいはこの世の評価主義に立てばそうかもしれませんが、神様は本当にそのことを喜ばれているのです。そのことをイエス様は、このぶどう園の主人が言った最後の言葉において言い表しています。マタイによる福音書20章13~15節「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」神様の救いはまさに神様の方、向こうからやって来て私たちを包み込みます。それがいつどこでやって来るかはわかりません。そして神様はその救いに与るもの、朝早くであろうともう働く時間が1時間しかない5時であろうと喜ばれるのだということです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というのが、神様の御心のなのです。私たちは神様の御国、その救いを現していく者であります。その神様のみ心を受け止めて、一人も多くの人がこのぶどう園、神様の救いの出来事に招かれていくことを祈ってまいりたい。そしてそこにおいて、つまり神の国においてはその恵みは1人1人にとってその人生にとって十分なものであることを覚えたいのです。

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9月26日主日礼拝説教音声データ-

「ぶどう園と農夫(労働者)のたとえ」 マタイ20章1~16節

9月26日主日礼拝説教音声データ-です。神さまの福音(良い知らせ)に一人でも多くの人が招かれますように

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