2022年11月26日 (土)

11月20日主日礼拝説教音声データー

「神の民の王」 サムエル記上5章1~5節

11月20日の主日礼拝説教音声データーです。イスラエルの王ダビデの子孫である、真の王であり、良い羊飼いであるキリストに従いながら歩んでまいりましょう。

2022年11月19日 (土)

11月13日主日礼拝説教音声データー

「約束の地に導いて下さる神」出エジプト記3章1~15節

11月13日の主日礼拝説教音声データーです。私たちを希望の光へと導いて下さる神様の愛を信じて歩んでいきましょう。

11月6日主日礼拝説教音声データー

「悲しむものの慰め主」 ルカによる福音書7章11~17節

聖徒の日、召天者記念礼拝の説教です。悲しむものの慰め主であるキリストを見上げて歩んでまいりましょう。

2022年11月 5日 (土)

10月30日主日礼拝説教音声データー

「人間の罪のゆえに滅ぼさない」 創世記9章8~17節

私たちを憐れみ、そして救いに導いて下さる神様の愛とその歴史をおぼえて歩んでいきましょう。

10月23日主日礼拝説教音声データー

「神による創造」 ヨブ記38章1~18節

降誕前の季節になりました。命を与えて下さった神様の創造のみ業を覚えつつ、歩んでまいりましょう。

2022年10月22日 (土)

10月16日主日礼拝説教音声データー

「本当の幸いを生きる共同体」 マタイによる福音書5章1~12節

10月16日主日礼拝説教音声データーです。イエス様の救いの光に照らされて、本当の幸いを生きる歩みを歩んでいまいりましょう。

10月9日主日礼拝説教音声データー

「私たちの内に働くキリスト」 コロサイの信徒への手紙1章21~29節

10月9日の主日礼拝説教音声データです。私たちの内に働くキリストによって、神様の祝福のもと、歩んでいきましょう。

2022年10月 8日 (土)

10月2日主日礼拝音声データー

「私たちの贖い主であるキリスト」 ヘブライ人への手紙9章23~28節

10月2日の主日礼拝説教音声データーです。キリストの贖いに感謝して歩んでいきましょう。

9月25日主日礼拝説教音声データー

「福音の種をまくこと」 コリントの信徒への手紙二 9章6~15節

9月25日主日礼拝説教音声データーです。福音の種をまく証人となって歩んでいきましょう。

2022年9月24日 (土)

9月18日主日礼拝説教音声データー

「イエス様とある村の姉妹」 ルカによる福音書10章38~42節

9月18日の主日礼拝説教音声データーです。愛知東地区交換講壇として日本基督教団 世真留教会の臼田宣弘牧師に説教していただきました。

 

 

9月11日主日礼拝説教音声データー

「最も重要な掟」 マルコによる福音書12章28~34節

9月11日主日礼拝説教音声データーです。イエス様に救われた喜びを胸に歩んでいきましょう。

2022年9月 7日 (水)

9月4日主日礼拝説教音声データー

「地の果ての救い」 使徒言行録13章44~52節

9月4日主日礼拝説教音声データーです。地の果てにまでも救いをもたらすキリストの恵みによって歩みましょう。

8月28日主日礼拝説教音声データー

「新しくされる生き方」 エフェソの信徒への手紙 4章17~32節

8月28日の主日礼拝説教音声データーです。キリストによって新しくされて行きましょう。

2022年8月27日 (土)

8月21日主日礼拝説教音声データー

「主に示された道を歩む」 ヘブライ人への手紙12章3~13節

8月21日主日礼拝説教音声データーです。

なお今回は都合により、8月21日の主日礼拝説教要旨はありません。

2022年8月15日 (月)

8月14日主日礼拝説教音声データー

「ミッション(使命)」 説教者:大林叡貴伝道師(京都教会)

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1~3節、ローマの信徒への手紙12章6~8節

牧師夏期休暇のため、豊橋教会出身の大林伝道師に説教していただきました。

そのため、説教要旨はありません。

 

8月7日主日礼拝説教要旨

「キリストの体である教会」 コリントの信徒への手紙一 12章12~26節

「漢字は聖書の真理」を示すということで、私たちが使用している漢字の意味から聖書に示されている事柄を考えていこうというインターネットのサイトがあります。そこで「道」という字の成り立ちについて本当に納得と言うか興味深い事柄が示されていたので引用したいと思います。「主イエス・キリストは言われました。「私が道です」(ヨハ一四・六)この「道」という字は、"首"と(しんにゅう)から成っています。"首"について、聖書にはこう書かれています。「キリストは教会の首(かしら)」(エペ五・二三 文語訳)。「かしら」は今は「頭」と書きますが、昔は「首」とも書いたわけです。キリストが"首"なのです。一方(しんにゅう)は、「行く」とか「歩く」の意味を持っています。それは「迎」「追」「迷」「速」「通」の字に見られるように、歩行を表します。つまり「道」は、"かしら"(首)なるキリストの"歩まれた"道のことでしょう。キリストは私たちに、模範として足跡を残されたのです。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を示されました」(Iペテ一二・二一)。私たちは人生の中で、「これが道だ」「あれが道だ」という多くの声を聞きます。しかし真実の道は、一つしかありません。すなわち、イエス・キリストの示された道です。私たちは迷わず、この道を歩もうではありませんか。」
 さて、本日説教されるべき御言葉はコリントの信徒への手紙一12章12~26節です。そしてここではまさに私たちが属している教会とはまさにたとえることができるならば、「キリストの体」であるということなのです。そして本当に「道」という意味の中に示されているように、道という漢字の「首」の部分はまさに「頭(かしら)」という意味であり、しんにゅうは「行く」「歩く」の意味ですけれども、まさにイエス・キリストを「頭」として成り立っているのが私たちの教会であるということなのです。それはその歩みの中で、イエス様が私たちに示してくださった模範、その御後を一歩一歩共に歩んでいく、キリストの示されている道、そのみ言葉に従った歩みをしていくのが私たち1人1人であるということではないでしょうか。ですから教会は常に生きているものであって、教会というのはまさに私たちの体がそうであるように耐えず変化していくものなのだということです。何故ならば、わたしたちの体もそうです。生きていくには、譬えば、最初は赤ちゃんのあの本当に生まれたての体からはじまり、子供時代、成長期、体はどんどん大きくなっていきます。そして大人になるとその成長が止まり落ち着いてくる。変化ということがあまり見られない。時間がとまっているのではないかと思う。それでも私たちの体は変化しています。生きているからです。そのようにキリストの体としての教会ということも、まさにこの世界の中で、生きた証し、イエス様を信じて、ともに歩む共同体として、時代とともに、その時時に応じて変化しているのだということなのです。

 そして、パウロはそのような私たち、キリストの生きた体として生かされ、この世界を歩んでいく信仰共同体である教会において、本当にキリストを頭としながらも、しかし、同時にコリントの信徒への手紙一12章13~14節で示されていますように「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」というまさに体に、目とか耳とか足とか様々な部分があるように、頭であるキリストにつながっている意味においては私たちは1つであるわけですけれども、それぞれに与えられている賜物、そして性格、個性という部分では十人十色であって、そのような十人十色がまた、聖霊によって、1つの体として、一人の救い主であるイエス様に従うために一致して歩んでいくということではないでしょうか。だからこそ、本日の御言葉、12章15~16節で示されていますように、「足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」とそのような人間的な違い、賜物の違いを教会においては少なくても、要らないなどとはいえないことがここでは示されていくのです。

 そして、そのように「キリストを頭として」「体は1つでも多くの部分からなり」ということは、またこういうことではないかということです。それはそれぞれの働きや部分に過大な期待や評価ということをせずにありのまま受け止める、現実を私たちは理想化しなくて住むということです。口は口の働きを担っているに過ぎず、目は目の働き、手は手の働きを担っているに過ぎません。大切な部分というか、一番大事なところはそのような私たちの性格とか個性とか1人1人の賜物、その働きをご存知であるキリストが私たちの「頭」であるということなのです。人の喜びを喜びとし、私たちの苦しみを真に苦しみとして下さるお方と私たちは結びついているということなのです。この体としての教会は現実の様々な問題とぶつかっていきます。それはこの世界の中で生きている共同体ですから当たり前のことなのです。しかし、そのような問題に対して、解決する道、そのようなことを乗り切っていくその力がやはりこの「頭」であるキリストにあるということではないでしょうか。そして体というのは、決して1つの部分は働いていたらそれでいいのかというとそういうものではありません。総合的に働いて、初めて体ということができるのです。ですからそこでは本当に「交わり」というか支え合うこと、そして祈り合って励まし合って、共に歩むことが必要となります。そうでないと1人悩み、弱さを抱えて、困ってしまう時に助け合うことがないと本当に体としては機能しないわけです。そしてこの体はまさにキリストの体であるということは、あの十字架の苦難、苦しみを耐え抜いた体であるということです。それはどんな苦難がきても、人間的には悩み多いときも、本当に頭であるキリストにつながっている限り、そのことを乗り越えることができるのだという希望がそこにはあるということになるのです。

 そしてそのすべてを血液のように回り、栄養を与え、そして私たちをつなぎとめているもの、それは神様の愛であり、キリストの愛なのではないでしょうか。なぜならば、本日のみ言葉の直後でパウロは、教会にとって大事な賜物、神様からの贈り物である愛を語っていくわけです。私たちは本当に頭であるキリストから、罪の赦しの出来事と、神様の命に生きることができる幸い、その恵みの中で、キリストあの十字架の出来事において示されている愛をいただき、そしてその愛の中で「キリストの体である教会」の健康状態を保っていくことができるのではないでしょうか。本日のみ言葉、コリントの信徒への手紙一12章26節では、このように示されていきます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」ここでみ言葉は、本当に支え合って、祈りつつ歩むことができる教会の姿を示しています。そして私たちの頭はその癒やし主であるイエス・キリストであるということになるのではないでしょうか。私たち共に頭であるキリストを仰いで、共に主の体の枝として、祈り合って、励まし合いつつ、信仰の生涯を歩んでいきましょう。

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8月7日主日礼拝説教音声データー

「キリストの体である教会」 コリントの信徒への手紙一 12章12~26節

8月7日主日礼拝説教音声データです。キリストの体である教会を各自の賜物を生かして形成していきましょう。

2022年8月 5日 (金)

7月31日主日礼拝説教要旨

「神の恵みによって生きる」 Ⅱコリント6章1~10節

 ある人がこのようなことを言っています。それは日本人というのは、「恵み」ということを本当にはよくわかっていないのではないかというのです。たとえば、この収穫は「天の恵み」だとか「自然の恵み」だということを言っていたとしても、本当にはわかっていないのではないかということです。では「恵み」ということを私たちはどのように考えてしまうのかということです。その人は私たちが考えるのは、「恵み」ではなくて「報い」として捉えてしまうということです。すべての事柄を良いことにしても、悪いことにしても、「報い」として捉えてしまうというのです。よく日本人は勤勉で、真面目な民族性だと言われます。頑張って努力すれば、報われると信じて、ひたすら努力します。ミスをした時には、それが自分でも他人でも、責任を取ることを期待します。ですから、何でもよく「責任論」を持ちだすのが私たちの国民性です。それは「報い」であると考えるからです。これらは良くも悪くも、全て何かの行いや対価に応じて、自分に返ってくるものなので、まさにそれは仏教的な考えである「因果応報」ということになるのです。

 神様はそのような私たちに「報い」を求められているのかということです。本日のみ言葉、コリントの信徒への手紙二6章1~10節におきましては、まさにそのことについて、神様が私たちに与えられるのはそのような「報い」ではなくて、「恵み」であることをはっきりと示しています。そしてその神様から与えられた恵みの出来事によって生きることが私たち神様を信じて、従うものの生き方であることをはっきりと示しているのです。もし報いであるならば、まさにこの手紙で起こっているようなことをまさにそれは自分が神様に従い得ない悪いことをしたので様々な試練に会っているのだとかんがえるのではないでしょうか。本日の御言葉、コリントの信徒への手紙二6章4~5節では、「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、」と証ししていまして、パウロはまずあらゆる場合の言ってみれば、パウロに訪れている労苦、その試練、パウロがその人生の中で忍耐しなければならなかった数々の出来事を示しています。自分は行き詰まったこともあった、鞭も打たれた、牢獄に監禁されたりもした、そして暴動に巻き込まれたこともあったし、眠れない日々も過ごしたけれども、そうしたことというのは、私たちが考えるように、パウロの行いが悪かったから、その「因果応報」でその事にあっているわけではないということなのです。パウロはそうした苦難や忍耐しなければならないこと、それは私たちの人生において、誰にでも訪れる出来事ですけれども、そういう機会を頑張ったら報われるとかそういうことを超えて、逆にそのようなときにもパウロ自身が本当にそのような「苦難」中においても神様に仕える機会としてそのことを捉えていて、コリントの信徒への手紙二6章6~7節のような機会として来たということなのですそれは「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです」とまさにみ言葉を受け、神様の力によって生きる時にそのようにすることができたというのです。人の評価ということは、本当に様々です。そして私達自身の環境ということも耐えず変化していきます。良いときも、悪いときも私たちには訪れるのです。

 でもそのようなときにも、神様の恵みの賜物というのは、いつも私たちに示されていて、9~10節のようなときもまさに私たちには神様の恵みがあるとはっきりとパウロは言うのです。譬えばそれは、9節では「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、」というのは、パウロがその悪評の中で、パウロの敵対者であるような人々、パウロのことを悪く言うような偽教師たちは、パウロのことを「人をだますような人」とか「ペテン師」だとか散々悪く言ったのだと思うのです。けれども、パウロはあくまでも、神様の恵みの出来事、喜びの知らせ、そして福音に忠実に歩んでいったわけです。神の恵みのもとそのように歩むことができたということです。あるいは「死にかかっているようで」「生きており」というのは、まさに神様にまさにその果たさなければならない使命があるからこそ。どんなに死にかかったとしても、牢に監禁されたり、鞭を打たれたり、あるいは飢餓が襲ってきたとしても、このように生かされている、これも神様の恵みの出来事であるということになるのです。そして人間的には、そのようなパウロのような試練に合えば、それこそ報いという考えなれば、そうとうそのことについて「悲しまなければ」ならないでしょう。試練や苦しみ、悲しみは忍耐しなければならない事柄なのですから、しかし、どんなときも、パウロには常に神様の恵みの出来事が示されていました。それはあとから思い返せばということかもしれません、しかし、すべてのことを耐えられたのも、まさにみ言葉によって生かされ、神様の力を受け、そしてまさに無条件に、キリストを信じる、信仰、そのイエス様を私の救い主と告白することによって与えられる「神の恵み」よって生かされてきたのだということなのです。ですから、その中で常に喜びを与えられて、全てに満たされ、物質的にはとか、けっしてそういう意味ではお金持ちではないけれども、むしろ「貧しいように見えて」精神的には、つまり心とか魂の面では豊かで「多くの人を富ませてきた」つまり霊の賜物において、心や魂において本当に救ってきた。多くの人がパウロによって救われたということなのです。

 ではいつが「神様の恵み」のときなのかと私たちは問うわけです。苦しみの中、忍耐しなければならない中、苦難、欠乏、行き詰まりの中にあって、いつが恵みの時なのかということです。パウロはそのことについてはっきりとコリントの信徒への手紙二6章2節でこのように語っています。そこでは「なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」私たちがこうして礼拝をするとき、あるいは御言葉を受ける時、そして祈る時、賛美する時、こうしてそのことが行われる今が恵みの時、であり救いの日なのだということなのです。それはいつか訪れるような未来の話ではありません。神様の恵みは、無条件です。どんなときにも私たちにその恵みが与えられています。そのことに気づくか気づかないかは私たちの心が神様に向いて開いているのか、それとも自分の問題で、心の中が本当に内向きになって閉じているのかその違いで、神様の恵みに気づくか、気づかないかということがあるのだということではないでしょうか。ある人がこのようなことを示しています。少し肌寒い時、そしてこの蕾はバラのつぼみの話をされているのですけれども、引用します「ここ数日の寒空の下、なかなか開かない。寒さのなかでの忍耐が続く。その間、他の蕾たちが少しずつ大きくなっている。それぞれが、蕾の大きさに適った佇まいで花ひらく時をジーっと待つ。花開く時が来るからである。蕾をひらくお方がいるからである。ひらいた時こそ、恵みの時に答えている現われだ」バラのつぼみの話ですけれども、その蕾はまさに花を開く時がきっと来るというのです。それはつぼみをひらくお方がいるからだということです。心を広くする時、高くその心をあげるとき、私たちは「今や恵みの時、今こそ、救いの日」として下さる神様の存在に気づくのです。その神様が私たちに無条件の愛をキリストのその福音、十字架と復活の出来事において示されています。わたしたち「神の恵みによって生きる」ものであり生かされているものであることを思い、どんなときも神様に仕えるものとして、そのことを証していく機会となることができますように、聖霊の助けを求めてまいりましょう。

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7月31日主日礼拝説教音声データー

「神の恵みによって生きる」 Ⅱコリント6章1~10節

7月31日主日礼拝説教音声データーです。神様の御恩のもと感謝して歩んでいきましょう。

2022年7月30日 (土)

7月24日主日礼拝説教要旨

「真理の土台の上に立つ教会」 テモテへの手紙一 3章14~16節

 テモテへの手紙一3章15節、そこではこのように教会のことが示されています。その後半部分ですけれどもそこでは「神の家とは、真理の柱であり、土台である生ける神の教会です。」この神の家という言葉がどのような言葉であるかということです。それは今のイスラエルの人々にとってもそうであるかもしれません。そしてかつてのサウロ、つまりファリサイ派のユダヤ教徒であったそのサウロであるならば、こういうかもしれません。

 「神の家」とは、エルサレム神殿であると、今はエルサレム神殿がありませんから、その荘厳さというのは、わからないわけです。パウロの時代は、ソロモン王の時に造られた神殿はすでになくなっておりまして、バビロン捕囚以後、神殿が再建された、その第二神殿、そしてあのヘロデ大王の時にその第二神殿を約3年をかけて再建したということになるのです。そして現在は、エルサレムにおいて、約490メートルのそのヘロデ王の時に再建された、神殿の壁が残るのみです。その壁において、厳格なユダヤ教徒の人々は、その壁に手をおいて祈っています。その壁はいまでは「嘆きの壁」と呼ばれているわけです。つまり今でも、そうした厳格なユダヤ教徒の人々にとって、「神の家」という言葉は、そのエルサレム神殿しかありえないのであり、そこに神様のご臨在つまり私たちと共にいることを感じ、その嘆きの壁に出向いて祈っているということになるのです。

 そのように「神の家」とは建物のことなのでしょうか。パウロはそうではないというのです。教会というと一般的には、ステンドグラスとかヨーロッパにあるような歴史的な大聖堂をすぐに思い浮かべますけれども、そうしたことというのは、私たちが本当に教会ということの本質を理解していないということになるのです。そして「神の家」は「真理の柱であり、土台の上に立っている」とパウロはこのようにテモテは言っているわけです。その土台とは一体どこにあるのかということです。かつてイエス様は、ペトロにこのように仰っています。マタイによる福音書16章18節「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」イエス様は、この岩の上に教会を立てると仰っています。そしてそれは「陰府の力が打ち勝つ」ことができないもの、私たち人間の闇とか罪に勝利していくものであること、ここにおいて私たち人間の闇が光に導かれていくものなのです。そしてその宣言であり告白であるということなのです。そしてイエス様が、この岩の上に教会を立てると仰ったその岩とはまさにペトロがその前、すなわちマタイによる福音書16章16節でイエス様に言っている「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白のことなのです。そして、そのことについてパウロ自身がはっきりとコリントの信徒への手紙一3章11節でこのように語っているわけです。そこでは「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」と言っているわけです。真理の柱であり、土台の上に立っている。しかもこの土台は、「城壁や防波堤」を意味するような言葉であって、ちょっとやそっとのことで崩れたりするような土台ではありません。そのような土台が「わたしたちの救い主であるイエス・キリスト」であるということなのです。

 そして教会という言葉、それはまさに建物ではないということはその言葉は、元々の意味からすれば、「エクレシア」というそのギリシア語の言葉は「召し集めされたもの」という意味だからです。聖書は、神様がまさにイエス様の救いによって、召し集めてくださっており、そしてそれも「神の家」として1つの家族となるように召し集めてくださっているのだということです。しかもその家族としての教会、「神の家」としての教会は、「私」という個人がイエス様を救い主と信じてますよ、それでいいではないですかではすまないものなのです。なにか自己実現していくような場所ではなくて、つまり自分の思いや願いを表していくようなそのような場所ではなくて、本当に私たちの救い主であるイエス・キリストのその救いの出来事、福音を示し、現していくまさに礼拝共同体としての教会です。それはまさに神様の呼びかけに応え、イエス様の呼びかけに応えて、つまり「自分の家」から「召し出されて」「神の家」に行って、神様を、そしてイエス様礼拝をしなければ、エクレシアの一員であるとは言えないわけです。従って、神様をイエス様を礼拝していない教会は、たとえ建物はあっても教会とは言えないのです。教会堂とか、チャペルとは言えるかもしれません。キリスト教式の結婚式場をチャペルという言い方をしますけれども、それは外見は教会の形をしているかもしれないわけですが、そこでは真の礼拝はなされず、ビジネスの一つの手段としてキリスト教の結婚式を提供しているのであって、それは「エクレシア」「教会」とはいえないわけです。そして今日の御言葉で示されている「真理の柱であり土台である生ける神の教会」ではないわけです。一人の私ということではなくて、この「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白していくこの信仰の群れのことを「エクレシア」という言葉は、指し示していくのだということです。つまり信仰とはなにか一人孤独に求めていくようなことではないのです。あるいは、無教会主義の人々のように、信じる人々の集まりを礼拝を否定したところにあるのではありません。従ってパウロにとってもうエルサレム神殿はただの建物であり、本当の「神の家」「教会」とはまさにその心に神様が住んでくださって、いつも召し出して下さって、集まる信仰者の集まりのことを指し示しているのだということなのです。

 話はここで少し変わりますけれども、以外にもあまり知られていないことなんですけれども、国立国会図書館東京本館の目録ホールにある図書カウンターの上にはギリシア語で、「真理はわれらを自由にする」と刻まれています。これは、国立国会図書館法という法律の前文で「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」と明記されているからです。そして元々はドイツのフィライブルグ図書館の中にある碑文なのだそうです。それを参考に当時の参議院議長であった、羽仁五郎という人がそのように刻んだ碑文ですが、その元々のところは、ヨハネによる福音書8章32節で仰ったイエス様の御言葉であるわけです。そしてその私たちを自由にしていく真理というのが、まさに教会の柱だということなのです。そしてわたしたちの信仰の中にもそのことはまさに「一致したもの」として示されるということなのです。

 キリストがなぜ肉において現れたのか、つまりわたしたちと同じ人となってくださったのか、そして霊において義とは、まさに神の子として、神様にその霊においても義と認めされるということです。そしてまさに世界中で信じられて、今では神の右に座して、神の子としての栄光を取り戻されているということなのです。この16節は最初の教会の人々の信仰告白でありそこで一致してアーメンと言えるものであるということなんです。何をそのところで一致して告白しているのか、まさにこのキリストこそが私たちを本当に罪から自由にしてくださっている方であり、「真理の土台の上に立つ教会」はこのキリストが立ててくださった自由によって、召し集めされていく礼拝共同体なのだということです。真理がわたしたちを自由にするというのは、何も国立国会図書館法だけに示されていくことではありません。有名なアメリカ独立宣言の中ではこのように示されています。「われわれは次のことが自明の真理であると信じる。すべての人は平等に造られ、創造主の神によって一定の譲ることのできない権利を与えられていること。その中には命、自由、そして幸福の追求が含まれていること。」このような宣言は、私たちの実は現代の民主主義の精神の部分であって、「自明の真理」ということがあるということであり、その真理はわたしたちを自由にしていく、まさに「神の子イエス・キリスト」が私たちを救い、自由にしてくださったという心理があるからこそ、神様がそのことを示してくださっているからこそ、私たちの自由とか平等とか愛ということが言えるのです。そのような民主主義の精神ということも、実の聖書の伝える真理からもともとは生まれているのです。しかも、そうした精神は決して私たち人間の中で生まれたものではなくて、まさにキリストによって、神様によってみ言葉によって示されている、与えられいく真理の中で言えることなのだということではないでしょうか。

 このキリストを伝えていくこと、つまりキリストの真理、福音、良き知らせ、本当にイエス様が私たちと同じ人となられて、十字架によって命を捨てられ、復活によって神様の命に与ることのできる希望を示されていることを伝えていくことは、私たち召し集めされたものが、なぜ、召し集めされているのかということの存在理由なのです。それは16節のみ言葉によって、「異邦人の中で宣べ伝えられ、世界中で信じられ」と言われていますけれども、世界中で宣べ伝えられいく、福音の真理が世界中で信じられていく中で私たちはそこで本当に救いの出来事、私たちが自由とされ、神様に命に与って、その恵みのもと歩めることの大切な意味、今の私たちが大切にしているような真理が私たちの宣べ伝えていく福音の中で示されているのです。ですから信仰こそ、それも主イエス・キリストに対する信仰は偉大だといえるのであり、教会はそこで一致していくのであり、私たちはその真理の柱、土台の上に「神の家」を築き上げていくのです。建物ではないということは、その信仰共同体の、群れであるということは、今ここにいる私たちだけが教会の一員ではないということです。日本中で、いや世界中で何十億人という人々が一斉にこの大切なキリストが復活された聖日、主の日をおぼえて礼拝をしているその人々、その中にわたしとあなたがいて、そしてその世界中の人々が「神の家」で礼拝をささげているのです。教会とは真理によって救われていき、自由にされたものの共同体です。そのことの大切さを覚えて、私たちはこれからもこの救いの柱、であり土台であるキリストへの信仰、その告白の上に立って、その救いに与って、その救いを伝えていくものでありたいのです。

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